参政権の行使を阻む統治体製「神の王国」 | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

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「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

さて「神の王国」が実在していないのであれば、当然「王国政府への忠節」というものにも影響を及ぼすはずです。つまり参政権の行使と不可分の関係(非常に重要!)になります。JWが投票しない理由は「神の王国政府に対して忠節である。」というものがあるからです。


私は個人的に思うのは、心の中で神の王国というものが存在しているとかすかにでも思いながらも、ただただ組織憎しのために、そして創造者憎しのあまり反抗心から選挙に出かけるのは精神的に不健全だと思います。何事においても「復讐心」や「憎しみ」が行動の動機づけになるようでは結局その復讐の対象や憎しみの対象の支配下に置かれていることになると思います。(重要)


聖書的に見ても、良心に何の呵責もなく、それまで組織の教理ゆえに非としてきた日常生活での行動をすることこそが真の意味での覚醒ではないかと思います。


そもそもJWが「人間の政府に頼らない」というのは決して間違っていないとは思います。腐敗と隣り合わせので様々な利権に伴い不正もあるでしょうし、すべての事実を明らかにしているわけではないでしょう。とはいえ、それは参政権の拒否と直接つながるものではありません。政治とはその支配下に置かれるものの生活に直接影響を与えるものですから、幸福の追求をする一つの権利として、もし参政権を行使することにより少しでも自分の生活に影響を与える政策に是か非の意思を表すことを禁じるのは、聖書とは全く無関係な話ではないかと思います。


しかもそれは統治体製の神の王国「政府」に対する忠節を求めているのですからね。


たとえばある政党が、カルト規制を打ち出しそれをマニフェストに掲げたとします。もしWT組織に対する規制も考えられるようであるならばその時JWは選挙権を行使しないのでしょうか。


それと・・・


ヤハウェへの忠節に関していうならば、古代イスラエルにおいて民は、周囲の国民と同様自分たちも「王」を求めた時の神の言葉は非常に興味深いのです。


サムエル第一8章


6 彼らが、「私たちをさばく王を与えてください」と言ったとき、そのことばはサムエルの気に入らなかった。そこでサムエルは主(ヤハウェ)に祈った。

7 主(ヤハウェ)はサムエルに仰せられた。「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから

8 わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのした事といえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えたことだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ。

9 今、彼らの声を聞け。ただし、彼らにきびしく警告し、彼らを治める王の権利を彼らに知らせよ。」


ヤハウェが実に寛容な態度を示しておられると感じます。そして神は「王政」を好ましく思っておられず、自分を捨てた証拠であることも認めておられます。それでも「民の声」を聴けと命じられました。多数の民がそういったのでしょう。つまり「多数決の原則=民意=民主主義」の容認です。


しかし実際に王制が敷かれた後、忠実な王に対しては祝福を与えられました。ダビデ王、ソロモン王の晩年以外の生涯、そして若き日のヨシア王、晩年のマナセ王などの記録を読むと、神は個々の王に対して、もしそのものが神の御意志にかなっている場合は助けを与えられ、キリスト誕生の経路にされ、聖書をも書かせたのです。


「王」とは政治権力の象徴であることから、人間を治めるにあたって神が直接支配をされないのであるならば、人間の政府が存在することを容認されるのはごく当然です。これはローマ書13章とも調和しています。


1 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです

2 したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。

3 支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。

4 それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。


政府というものが相対的とはいえ、その存在価値をパウロは示しています。

この時代はそれこそ「普通選挙権」などないのですから、一般庶民が政治に加わる機会そのものがない故、当時の「政治に参加する」という意識と今の時代の意識とは同じ基準で考えることはできないのではないかと思います。


理想的極論を言えば、被選挙権を行使する人、つまり政治家になろうとする人も聖書的原則に違反しないのであるならば、差支えないということになるかと思います。現実的には無理でしょうけどね。しかしとりあえずは、自分の生活と密接に関連する政策をよく見極め、自分の考えといちばん近い人に投票するのは、自分自身が聖書的に間違ったことをしていないのであれば問題ないと思いますね。中立を保ちたいのであれば、特定の政党の党員にならず、その時々において自由に投票すればいいと思います。


忠節を示すべき統治体の言う「神の王国」など存在しないのですから。


間もなく統一地方選挙が行われますが、地方自治はある意味国政よりも自分の生活と密接に関連しますので、署名活動の延長くらいの軽い気持ちで良いのではないかと思います。


結局参政権行使にまで影響を及ぼそうとする統治体は神の王国を利用して、その王国の自称大使である自分たちに忠節を求めているんですね。古代のイスラエルが「王」を求めたように、自分を支配する権力者が良いものであってほしいという人間の持つ自然な気持ちをすべて自分たちに向けているのです。


参政権を行使させないのはその実質においては統治体への服従を要求しているんですね。