7月8日朝6時頃


よく寝れたのか寝れていないのかよくわからない状態で起床し、運命の朝を迎えました。

窓を開け外をみると、雨は降っていない、なんだかドンよりとした中にも少し日が差すような、豪雨のあとらしい天気だったように思います。

気が張っているのかみんな同じくらいの時間に起床していました。

すぐテレビをつけ、ニュースをみます。
もうみなさんご存知の通りの光景がずっとテレビには映っています。

この朝はみんなカラ元気とゆーか、なんだか英気が漲っているようにもみえた気がします。


朝食を済ませ、身支度をし、用意していた道具をそれぞれに一式段取りし、みんなで長靴を着用し、さぁ行こうと士気を上げます。

私も車に乗り、隣町からいざ真備町へ。

もちろん寸断された道ばかりなので限られた道を行きます。

朝も早いのにもかかわらず大渋滞中の大渋滞。

仕方ありません。
思いは町民みな同じなので、トロトロと町の方へ近づいていきます。

ヘドロとまだうっすらと残っている泥水の中を走ります。

車は黒色なのですが、少し走っただけでも黒色と茶色のツートンになります。

私は地元の人間ですので、あまりの渋滞に大通りを避け、途中から賭けで中路を走る事にしました。

しかし、瓦礫や車が道を阻みます。

申し訳ないと思いつつ、瓦礫は田んぼの中へ、車は手押しで道の端へよけ、なんとか我が家の近くまでつきました。

しかし、我が家の分譲地に行くには道が一本しかありません。
そこに車が2台折り重なっていました。

これ、1人じゃキツイなーとか考えながらいると、近所の方が後ろから車で1人こられました。

男2人ならなんとかいけるかと2人で何とか車をヨソへかわし、我が家につきました。

想像していたリアルな光景がそこにはありました。


とにかく歩けない程ヘドロで滑ります。


汚水も地上に上がってきているので、ヘドロとあいまって物凄い臭いがします。

これは人生で嗅いだ事のない程の悪臭でした。

そして気持ちを確かに家の玄関を開けます。


。。。



わかってはいたものの、唖然とし、玄関を開けたその姿のまま、5分程止まっていたように覚えています。

何も考えれず、ただただ呆然と眺めていました。


ふと我に返り、肝をすえ、リビングのドアを開けます。


。。。

でしょうねえ。

ここでもまたしばらく呆然と立ったまま時間が過ぎたような気がします。


気を確かに、散乱した家具の間を歩き、キッチンをみると、


。。。


またここでも何も考えれず、ただただ呆然と眺めているだけたったように思います。


人間、覚悟が出来ていても、いざ目の当たりにすると、何も行動できない時もあるんやなと実感しました。

この時はショック過ぎて、一気に全部を見れず、玄関、リビング、キッチンを見て一旦外へ出ました。

近所の方も2、3軒来られ、崩れ落ちている姿を見て、涙がでました。

私の区画はまだ建って2、3年程の家ばかり。

まだ数ヶ月の方もおられます。

新興住宅地の多い真備町の中には建って数日、引き渡し前、建築中の方もたくさんおられました。

思いは違えど、その気持ちは計り知れません。


一度外へ出て、なかなか中に入れる気持ちになれないので、とりあえずメーカーの担当者に電話を入れる事にしました。

次回へ続く。

そして私達家族3人、親父と母親、叔父で親戚の空き家に着いたのは夜中の10時半ごろだったでしょうか。

祖母は足も悪い事からとりあえずは親父の妹家族の家でお世話になる事になりました。

あたりは災害を忘れさせるほどの静けさで、隣町では当たり前のように普通の日常がありました。

家に入るや否や、とにかく風呂にも入っていませんし、歯磨きもしていませんので、大人数ですが、順番に風呂に入り、久しぶりの室内での団欒をみんなでします。

あの夜はどーの、避難所ではどーの、家はどーなっとんのや、話題は尽きませんが、疲れからなのか次第にみんなそれぞれの寝床へつきます。

子供も幼いながらにもその場に順応して、明るく振舞って、場を和ませていました。

文句の1つも言うわけでもなく、子供なりに色々思ってからの事だろうなとホントに成長を感じれる体験でした。

僅かに1日ブリではありますが、布団に川の字で3人寝転んで眠りにつけることがここまで幸せな事なのかと傷心した心に染み渡りました。

そして子供と嫁さんが眠るのを見届けると、私も自然と寝落ちていました。


翌朝7月8日。

疲れのせいか、普段なら5時半頃には目覚める私が、起きたのは7時。

子供も嫁さんもよく寝ていました。


そしてみんな起床し、リビングへ行くと、親父も母親も叔父も起きており、テレビのニュースを見ていました。

そこへ飛び込んできたのは町全体の家の二階あたりまで浸水した映像でした。

心の覚悟は出来ていました。
でもやはり、いざ映像でみると言葉にならず、無言でテレビをみていたように記憶しています。

心のどこかでは、ウチはなんとか二階は大丈夫やろとの気持ちがこの頃はまだあった様に思います。

とにかくは食べないと体がもたないので、支援でいただいたおにぎりや、パンなどをみんなで食べます。

ひとしきり朝食を終えると、親父、母親は隣町のホームセンターやドラッグストアへ買い出しに。

叔父は膝が悪いので、家で待機。

私はと言いますと、実は嫁さんと子供は、倉敷の嫁さんのお姉さんのところへ預ける話しになっていましたので、2人をお姉さんのところへ送ります。

やはりこちらの家では気を使うだろう、嫁さんも居ずらいなとゆー事で話しをしていました。

送るといっても、普段なら真備から高梁川の土手沿いを走って倉敷へでるのですが、酒津あたりで道が冠水しているとの事で通行止め。

ですので、総社の裏の方を抜け、倉敷インターの方面から倉敷へ向かいました。

嫁さんと子供をお姉さんにお願いし、私はまた空き家の方へ帰ります。
この頃お昼くらいだったでしょうか。

母親とかぶらないよう、帰り道、少し買い物をし、帰宅。

帰ると叔父が、

ウチゃーダメや、二階までいっとるらしー

近所の方が見に行ってくれたみたいで、叔父の1人で住む家、二階まで浸水確定。

ん?

叔父の家からウチまではそんなに遠くない。

もしかしてウチも。。。

色々な思いが込み上げてきました。

しかしまだ水は引いておらず、全然道は通れんとの情報。

親父達も買い物から帰宅。


15時くらいでしょうか、真備の知り合いの方から着信が入ります。

行けるとこも出てきたよ、と。

少しづつ引いてきてるんや、現実がほんの少し近づいてきたように思いました。

しかしまた我が家の方は水が引いてなかったよとの事でした。

親父達と話しをし、とりあえず急いでも何にも変わらないので、今日はもう夕方、ゆっくり休んで、明日の朝からそれぞれの家を見に行こうと。

気を紛らわそうと冗談ばかり言う親父が、頼もしく、気丈に振舞っている母親が暖かく、子供の頃以来でしょうか、これほどまで親のことをそういった目線で見た事はなかったように思います。

テレビをみると相変わらずニュースは真備町ばかりです。
しかし恐ろしい映像です。

この頃からでしょうか、自分の気持ちが不安でもどかしさでいっぱいだったのが、どの道具がいるか、まず何をするか、まずどこに連絡を入れるかと前向きな、復旧復興に向けての被災者としての、強い気持ちに変わってきたような気がしました。

私も一家の主です。

どーなっていようが、絶対に家をもと通りに、もしくはどんな形であれ、家族3人が笑って暮らせる家を必ず再建してやるとの気持ちでいっぱいでした。

この頃18時あたり。


夕食もいただいた物資をみんなで食べ、それぞれに風呂に入り、またニュースを見てますと、また真備の知り合いの方から着信。

もう大体引いてきたみたいとの連絡。

よし!

きたる明日の事態に備え、それぞれ寝床へ。

侍は暗いところで英気を養います。
真っ暗にし、想いにふけながら、寝落ちします。



余談にはなりますが、私は好きな言葉があります。

亡くなった曾祖母が生前にくれた言葉です。

私は幼い頃から落ち着きがなく、反抗期も長く、親に物凄く迷惑をかけてきました。

高校卒業した頃でしょうか、そんな時に曾祖母が、

お前ももうそろそろ大人に近づいていくんや。
しっかり前見て、足元固めて、我慢を勉強せぇ。

人間は隙のある人にしか寄ってこん。
いつも気を張って、意地をはって、バリケード張っとる人間には誰も寄ってこん。

やからお前も隙のある人間になれ。と。


この言葉が自分の人生の1番の課題であり、目標であり、好きな言葉です。



話はそれましたが、






そして運命の朝を迎える事になります。

次回へ





追記
今の時代、どこでどんな災害が起こるかもわかりません。これを読んで下さる方、またふと目に止まった方、色々な方がいると思います。
写真は載せまいと思っていましたが、この写真や記事が少しでも誰かの心に、またもしかしたら防災に役立つかもわかりません。
次回から写真を付けていきます。見たくない方は控えて下さるよう宜しくお願い致します。

町を見て絶望した私達は、またとりあえず避難所へ。とにかく今はここしか居場所がありません。

このあたりからでしょうか、会社関係、友人など続々と電話が鳴り止みません。
しかし、災害が起きたせいか、通信環境がよくなく、通話もネットもできなくなっていました。
着信はくるのですが、出ても話が出来ない状態と言えばわかりやすいかと思います。

もちろんネットもダメです。

私達の車と言えば私の通勤車の軽バンなので、ナビもテレビもなく、完全に情報も入らなくなり、実際に真備町の人間より、テレビを観ている他所の方々の方が今現状の真備町を知っている、そんな感じでした。

ホントに現地の、避難所にいる被災者の私達の方がなんにもわからないんです。

車からおり、しばらく歩きやっと通信環境のよい場所を見つけ、そこで電話をくれた方々に返信すること2時間あまり。

他の方々もここの場所に集まりだし、みなさん電話をしているという状況。

ひとしきり電話も終わり、車に戻ります。

言い忘れていましたが、少し綺麗ではない話になります。ですが、現実ですのでお話ししておきます。

トイレ。

町が浸水して、ライフラインの切れた町ではとにかく電気もなければ、水道も断水状態。

もうお分かりかとは思いますが、トイレの水がながれません。しかし、トイレにはひっきりなしに人がきます。小は人力でバケツで雨水をためて流せばまだなんとか大丈夫ですが、問題は大です。

男子用トイレでは、1人の方が用を。
その上にティッシュで覆って見えないように。
そしてまた次の方が。
そしてまたその上にティッシュを。

といった感じでどんどん臭いと環境が悪くなっていきます。

女性の方は、もちろんそんな事はできず、大半の方は我慢を強いられていました。

しかし、物事には限界というものがあります。

草むらです。

悲惨な現実でした。

どこの被災地でも同じだと思います。


話を戻します。


気づけば雨は少し小降りになっていました。
あたりも暗くなり始め、また静寂の夜がやってこようとしていました。

ただ今避難2日目の夜。

相変わらず車の中で過ごす私達3人。

私はときおりタバコを吸いに外に出て、他の喫煙者の方と情報交換したり。

また車へ戻りの繰り返し。

おそらく7日の19時あたりだったと思います。

雨もほとんど上がってきました。

子供もさすがに車内にずっといるのもシンドそうで、ときおりトイレに連れていったり、ちょっと散歩をしてみたりと気晴らしはするもののとくになにも変わらない落ち着かない時間がゆっくりと過ぎます。

そして21時頃でしょうか、周りも徐々に静かになってき、昨晩の疲れからでしょうか、体育館ではお休みになられる方もたくさんおり、より静寂が増してきます。

気付けば雨は止んでいました。

そこに、親父からの電話がはいります。
親父は別の避難所に母親と、祖母、叔父と避難しています。


おい、ちょっとこっちに集まらんか

と。

私達は親父達のいる避難所へ車を走らせます。

合流するや否や、

親戚の空き家が隣町にあるから、みんなでそっちに行かないかと。
しかも電気も水道も通っているとの話でした!

もちろんみんな疲れている状況です、全員賛成でそちらの家に向かう事になりました。

この時私は少しですが、子供をゆっくり布団で休ませてやれる、嫁さんもゆっくり転ばせてやれる、そしてなんといっても、風呂と歯磨きができる。

この気持ちが、私の不安な心に僅かの安堵をもたらしてくれました。

親父に感謝です。



次回へ