(上段)

第六章
はじめに

残されているとすれば世界最大の騎馬騎となったはずのレオナルド・ダ・ヴィンチのスフォルツァの記念馬像がいったいどんな姿であったかこれまで不明とされている。それが粘土でしかつくられなかったとはいえ、その馬の高さが七・二mもあって、一四九三年十一月に展示されたのであったとすれば、それがどのようなものであったか考察するのはレオナルド研究者にとってはひとつの義務というべきであろう。不幸にして準備されたブロンズは大砲鋳造のために送られてしまい、粘土の模型もフランス軍の標的となり、その後崩壊してしまった。
今日まで、それを正確に予想するデッサンは特定できない、ということで必ずしも十分に議論されずにきたが、マドリッド手稿の発見でそこに明らかに一定した馬の像が存在することが示された。そのことは意外によく検討されていない。筆者はそれをもとに、他の数十点ある馬のデッサンを吟味し、『トリヴルツィオ騎馬像』のそれとを区別して、『スフォルツァ騎馬像』がどんな形を

(下段)
していたかを明らかにしたいと思う。

1レオナルドが手がけた三つの『騎馬像』

レオナルド・ダ・ヴィンチは生涯に三度、騎馬像の制作にたずさわった。最初はフィレンツェのヴェロッキオの工房にいたとき、『コッレオーニ騎馬像』の制作に、その構想の段階で参加したと考えられるし、第二はミラノで『スフォルツァ騎馬像』の巨大な馬を制作し、粘土製のモデルをつくり上げた。第三は『トリヴルツィオ騎馬像』を第二のミラノ時代に制作しようとした。しかしこれも実現しなかった。
まず『コッレオーニ騎馬像』(図6ー1-a)について述べれば、一四七九年、ヴェネツィア共和国から依頼されたもので三人の彫刻家の中で、ヴェロッキオの案が一四八三年に選択された。彼は一四八一年の夏までには模型を完成し、それをヴェネツィアに送っている。この一四八一年という年はレオナルドがまだフィレンツェにおり、ヴェロッキオに協力ができた時代である。
『コッレオ―二騎馬像』制作にレオナルドが参加した文言記録のものは見出されていないが、その騎馬像そのものの表現に、十分レオナルドがたずさわったという証拠がある。そのひとつは同じ一四八一年三月に始めた『三王礼拝』図の背景の中に、廃墟の二つの柱の間から馬が前半身あらわれており、その左脚の上げ方や首の角度が

P129(上段)
ほとんど同じ(図6-2)、ということと、二、三のデッサン
の馬の
そして何よりも、一律っている
と似ているからである。
士のと兜町
らである。
レオナルドのデッサン『古代の戦士』(図614)とよく似ているか
これはすでに指されているところであるが、この『古
上』
代の戦士』に似た兜の戟士が、低浮彫りで賢スキピオ』や『青年
としてヴェロッキオ工房周辺で制作されているので必ずしも
レオナルドだけがこのようなタイプの戦士のプロフィールを制作し
〔7)
たのではないことが言われている。しかし『コッレオーニ馬像』
の(図6-5)は、レオ.ナルドのデッサンとあまりにも似ており、
こうしたグロテスグもしくは、強い戦豹な人物の(ライオンの
いていることからも、
顔をぞばに描いているデッサンもある。創口鵠日)図616)を描
レオナルドの原案としか考えられない。
逆にヴェロッキオがこの作品を構想したと仮定すると、その『ダ
ヴィデ像』『トマスの不暦細のやかな表現とあまりにも具なるこ
とが・指摘されうる。むろんヴェロッキオの浮彫りの『ヨハネの斬
首一一(フ.ィレンツェ、大聖堂付属美術館)にある右の二人の士たち
が、それに似ている(図6-7)、と匹われるかもしれな園が、これ
館)で、天一闊と風景だけを担くような共作をしているのであり、そ
ロッキオとは『キリストの洗礼』(フィレンツェ、ウフィスツィ美術
り、この部分にもレオナルドが工房に参加したと考えられる。ヴェ
ら二人は左側の檀ヨハネ自身や首を卯る人物の表現と具猷つてお
(8)
の点でもレオナルドの参加は不自然ではないのである

P129(下段)
ろんレオナルドはこの造に立山青白ったわけではない。眩は一
と、庖の二人の一
作だけに参画したのである。ヴァザーリはヴェロフキオが彼の馬
四八二年にミラノに向献ったがらそれが不可能で、そのモデルの制
のうち一ヴェッラーノの制作目の人物とをみ合わ

す案が出だことを聞いて大い比怒り、モデルをしてフィレーンツェ
つてしまつた、という逸話を臼えているが、ヴェネ胃ィア人た
'ちにこの士が特に見え、この怒れるが平ッレオーニ自身から
かけ離杖て映ったから、とも「一一日える。この逸話は不腋かにしても十
分者えうることである。ヴェロッキオは一四八八年、を終える.
と|一一日えよう。
がレオパルディでも、ヴェロッキオでもなく、レオナルド的である
て完成した。その名が腹部に刻まれて馴るが、しかし質的にもこれ
ことなく他界し三人の候補吝の一人レオバルディが改めて迎えられ
そのがあったからこそ彼はミラノの『スフォルツァ騎馬像』
のもこの
制作者募集の報を問いて自信をもって応募したのであろう。という
をミラノのスフォルツァ家が出していることを知って
いたに遮園ないからである。一四七三年に時のミラノ主ガレアッ
ツォ・マリア・スフォルツァが家バルトロ"メオ・ガ一丁ィオに故
じてその像を広べイタびア各地に探させていたし、その領主の
死後、弟のルドヴィコ・イル・モーロがひきき望んでい尭ことも
フィレンツェでは知られていた。フィレンツェの
のデッサン鑓その想デッサンであろう。
レオナルドの有名な芭フノ公あての自の最後に、自分は青
の馬も制作しております。それは閣下の御父君ならびに高名なる

P132(上段)
フォルツァ家のめでたき記念として不滅の光栄、永遠の誉れとな
と書いていることのは、まさにこのスフォル
ツァ騎馬像の制作の意志を釈えている、と考えるのが自であろう。
ミラノに到着したレオナルドが、『スフォルツァ馬像』.の制作を
則始した暗かな時期は知られて匡ないが、一四八九年のミラノ駐在
のフィレンツェ大使が、ロレンツォ・デ・メディチに宛てた手紙で、
命令でンオナルドが、武
目下ロドヴィコ大公が彼の父のために記念像を計画しており、肢の
したフランチェスコ公が乗っている「巨
大な馬」をブロンズでするのに必要なモデルをつぐっているこ
レンツェ
とを知らせている。しかしルドヴィコは技の仕に満足せず〈フィ
でもし適任の芸術家がい渇ならば、一人か二人を推薦して
眼にもレオナルドが成功する、
彼の下に送って欧しいと依しているのである。そして大使自身の
といヶ信はないと書き添えてい
この手紙がレオナルドとスフォルツァ馬塵を徘びつける
初の日付のついたとすると、少なくともこの年代まで、レオナ
ルドは相当な仕事を行っていた、と推測できる。
K・クラ"ークが一百うように、初期のにはウィンザー城所の
晋く下りした白い紙に、筆で描いた騎馬庫(城一目國崇)図61
8)があり、馬が脚で立ち、倒れる兵士の上に前脚を上げている。
士は左手でく手を引き、指拓棒をもT右手を後に振って後続
の軍隊をしているようである。もう一点(城一冒岡一図619)
は直方体の台座の上でで立ってい"る」馬に、騎士がのってやはり
一方を横たわる敵兵の代わりに切株にのせている不自然さがある

P132(下段)
ずれにせよこのような姿の馬倣の制作が、ロドヴィコの廟隈
にも不可能に見えだのであろう。
「一四九①年四月二上一一日、私はこの本を開始し、を再開する」
(フランス学士院C手稿口御澗)と書いたとき、.あらたな『巨大な
にゆずることにする。
馬」の創造の開始といってよい。その馬がどんな姿であったかは後
レ戎ナルドはルドヴィコが逮捕された一五①⑪年にフィレンツェ
リの戦い』を中断しミラノに赴くことになる。そして一五①八年頃
に帰り、そこで絵画の陳作を描いていくが、一五①六年『アンギア
(と考えられている)から、『トリヴルツィオ徹』にとりかかる
ことになる。これはアトランティコ手稿の一頁(同娼鰐ー已に、トリ
ヴルツィオ将軍のと明記されたな衡用の見があ
るからで、内容は三部に分かれ、の制作資および材料賛が一、五八
四六ドゥカーティとなっている。
て大理ぢの禿めの工事貿などが一、①七五ドゥカーティ、合計一|一、①
二γゥカIティ、基壇の大理石の吠企が三八九ドゥカ1ティ、そし
この内訳は細かく陵圃かれ、大理石
の益垣は準備された『デッサンに従って」各部分の代金がつけられ〈拓〉
この記念像のためのデッサンを比
ている。八体の人物贖が含まれていることから、その特徴によって
的容易に見つけることが出・釆る.
(巴澗lヶ)から切り取った二本の後脚で立つ騎馬陳が上には匿っけ
まずウィンザー城の一枚(拓}図誤∞)には、アトランティコ手
てある。又やはり誨いを捕いた騎馬像の三つと後脚で立つ大き
を示したものであろう。
な騎馬を猫いたデッサン(城}冒昂)図61用)はそのための柄
これを見ると『トリヴルツィオ騎馬像』で

P134(上段)
、最初はやはり、脚で立つしいの馬を構想していたこと
このデッサンの巾央の下の図がほぼ見積酋の基の記述
に符合していることがらも付けられる。
ここでレオナルド.は約十年前の果たせなかったの構想を
もう一度らせ、もう一度り返した、といえるかもしれない。し
かし同じ後圃訓で立ってい湛呵』、行がよりしくなり、『スフォル
ツァの初期のものに比べても馬は顎をひき、下の閾れる
兵を園兄下している。そして上も、前に指を突き出し、その激
しい罵のに合わせよ・γとしている。そして何よりもこの
が実物大であり、ズフォルツァ馬像のような『巨大な馬」でなかっ
たことは、こうしたでも可能だ速考えられたのであろう。
の姿に
比かしすぐに『スフォルツァ騎馬贖』のときと同じく、歩行する
わっている。基壇をともなったそのような姿ののデッ
サンがウィンザー城に:あり(乏口目膜宍図6lH)その他の二点
(城同目沼】図6ー捻、}同宮戸図61籾)はその姿をあらわしたと
考えられる。クラークは妬}冒訓内と和を表の中世風のから、裏の
古典的な快活な馬への (37) を示していると語っている。裏頁のRの
図(図6ー招)は、表の赤チョークにべンとインクで描かれたの
一ァッサンを、(I)法が斜めの対角でなく水平にされ、かつ
形に沿った曲を用い、(2)鏃も素早く神な腺ではなく、
ゆっくりに運ばれ、(3)素の下地にチョークを使用し、
(4)用がフランス製であるという理ー田から)一五①〇年後の
作である、と述べているヵこの点沁ら志トリヴルツィオ馬像と
づけられるであろう

P134(下段)
の作においても馬の鋳造に関する手
スフォルツァのものか卜刀ヴ虚ツィオのものかが分かれるが、
クラ1クはこれを簾者のものと七ている。ごの点についても水で
れることにしよう。いずれにせよこのする
・馬のを眞一につけ、しいきを示そうとしている点であ墨し
では扁
かし城一目⑦o (図6ー・目) に示されるように、歩く姿でさえも二目
を支えることができない、と考えたようで、前足の下に永
がこぼれている一をおいているもある。しかもまだ、下に
兵が倒れており後脚で立ってい酋馬も同じ紙に描い一巨る。
結局このも完成Lなかった。ヴァザロリはこのの制作のこと
像の哭現住が『スフォルツァ
さえ触れていない。その理由は明に知ることが出来ないが、この
レオナルド缶」)でのときよ
りもかったことを暗示しているようである。
さて三体の像について略述してきたが、それはこれから述ぺ
るスアォルツァの再について必要な前呉きと寺えられた
からである。「コッレオーニ像』は別の昨者の名で完された。
トリヴルツィオはその型さえ作られたとは恩われない。し
かし『ス.フォルツァ馬倣』だけは、少なくとも土の馬はつくら
れたのであり、鋳造のためのブロンズさえ・嗣されたのである〈:実
近かった以上このがどんなものであったか、もっと
されるべきであろう
P136
『スフォルツァ騎馬像』の復元 ザー城図銚臼館の後脚で立つ馬像のデッサン(図69)の方に近 (a)マドリッド手稿の三つの馬 一九六七年に発見されたマドリッド手胸の中の一七 目下制作中のブロンズの馬の計画に関連する一切をここに記 ]司舛)の馬の鋳造に関する手記は、「一四九一年五月十七日夕刻、 す る」(一目六)という最初の記述にもあるように、すべてスフォルツァ 馬庫に関するものである。この一七葉の中に三木の馬の全身像が デッサンとして蜷かれている。それは同北内と一念岸及び一目くである。 これら三の馬は『スフォルツァ陳』のためであるから、この三 考えてよい。.ただこの一一一 像がある一貫した像であれば、それが.この騎馬像の馬の形であると を検討する前に、このマドリッド手稿が 在の紙葉番号とは逆の序で書きすすめられているので(誂の鏡 かれている。その その頁に「馬の鋳造に関する型および雌型の強材である』と あろう。興味深いのは関目に一四九一年五月十七日の日睡があり、 徴文字に照らして当然であろう)それに沿って年代を考える必要が (館調図6ー拓)に馬の頭部及び部の雌型 は決して正常な歩く姿のそれではなく、 る。この像芒けでも勇壮な馬の一駅部が想贖できる。ところでこの姿 を組み合わせて、上または石膏の外型を全画にわたって補強してい の骨組みを示す図が担かれていることである〈』格子状に鉄の細い捧 足で立って勇壮にを上 げる}の姿といってよい。を上にあげており、その点でもウィ

(した)

れによりレオナルドは『スフォルツァ騎』を最初は後脚で "立つ馬として構想していたことは予想できるが、地にブダペスト美 杞ブロンズ像(図I托la)が残っていたり、ウィンザー城 ・及び大英博物館にあるデッサン叉び版画(図61托Ib)がその姿 (23》 を予想ざせる。 この後脚のみで立つ飛び上がるような像が、ブロンズ像で完成す 転じた、 るのは大変困難であると考えられたことにより、技は歩行する姿に と思われる。これはとくにこの欧の巨大さlI目Iすでに述べ に「私の父の冥福にふさわしい記念像、それは武装したフランチェ ル・モーロからフィレンツェのロレンツォ"デ・メディチへの手記 たフィレンツェ大使の手紙の饂に一四八九年ヒ月二十日の注文者イ ヽヽヽヽヽヽ スコ公を乗ぜた非常に大きなブコンズの馬です」とかれているよ うにIIlのために一層不可能なものこ講ン一といってよいであろ 現を危ぶ昂、 う。この後脚で立つ像を考えていたために、イル・モーロはその実 この手紙をいてロレンツォに態の彫刻家の したと考えられているが、このマドリッド手稿での飛び上がる馬 の頭・首の朧のスケッチは、それとは必ずしも関開がなかったと予 させる。ふつう一四九①年四月二十三日のレオナルドが「私は再 る。 会〉 一年五月七七日の段階でも未だ後脚で立つ像を考えていたのであ

 

 

P137

しかしマドリッド手の且一七紙にあるように、そのブーロンズ の90作実現を考察するう.ちにその困さを感じどり、 方法を でに、左足を前に直角に突き出した馬の像を描いで、歩く像の している。さらに決定的なのは一団一礫の図(図6ー打)で、 この図は、一四九三年十二月二F日の日付があり、歩く姿となって いる。《私は尻尾なしの馬を撰にして鋳造することを決心した》と害 (26〕 "かれた文傘と回じ頁にあるもので、文章と図は別々の時期にかれ た肩とぐ考えられるが、このデッサンが横にしてする際の図な 文章に書かれているが、このデ.ッサンの馬も尻尾がないのである。 ので、同時期のものとしてよいであろう。とくに《尻尾なしの》と 次に}念崇(図6J田)であるが、これは地下に逆さまに馬を下ろ ている して鋳造する方法を示した図である。この図の下にさまに描かれ の図(図61目)が、ほとんど前図と同一のを示してお る。横倒しにして り、}騙く図以後、一貫した姿をとり始めていることは注目に腱す する方法が、ここではやはり逆さまはして地 が記され、その 下に下ろす方法に戻っており、この馬の首のところにも.mnの文字 までまずブロンズを流し込むようにと、述べてい る では明ら加に左の前脚が直角に上がっており、右の後脚が上がって こでは脚の位置に注目しなければならない。というのも王の馬の図 下に逆に下げられた馬を真上から児た図(図61拐) がある。こ ぼ大凡の姿を想像できるのである。さらにこの図の中央にあ基、地 いずれにせよこのを逆に立ててみると、スフォルツァ馬朧のほ る。多いるが、この中央の図では立体にして考えると、右前脚が突き出る


P138
る では明ら加に左の前脚が直角に上がっており、右の後脚が上がって こでは脚の位置に注目しなければならない。というのも王の馬の図 下に逆に下げられた馬を真上から児た図(図61拐) がある。こ ぼ大凡の姿を想像できるのである。さらにこの図の中央にあ基、地 いずれにせよこのを逆に立ててみると、スフォルツァ馬朧のほ る。多
P139(上段)
図乏ほぼ回じ姿を七ている。ここでは左の將脚と右の後脚がヒがっ
ており、マドリッド手稿の馬の側一匪図の最提のニと同一である。

b)他の手稿の馬
これまでの研究史では、『スフォルツァ馬像』の形態を確認する
というが一般的であるが、ほぼ一貫した錫の
朧が、マドリッド手稿に見られ、これが

馬の姿であることが予想がつくのである。
中にあるだろうか。
馬像のためのデッサンがウィンザ城図書館にかなり多く存在
分が
似た、一を正常にあげて歩んでいる馬は余り多くはない。その大部
しており、同じように前脚を直角にあげている図はあるが、これに
曲げ首につかんばかがの像である。これらはデッサン自陣
の年代から見て、それらは約十数年後の]一トリヴルツィオ騎馬像』
P139(下段)
ためのものと考えられるのであろ。例えば一泡口冒酉(図6122)
は首
に近く、.層遠足の子を示している。とくに城}冒鳥目(図6ー
24)の、よくレオナルドがパヴィアのレジソーレのを写したとμ
(32〕
会の表現である。
ティコ手稿(}自六)に「バヴィアの馬でとくに感心するのはその画
輸ゎれる馬の宣閣もまた、頭が首に近づいた像となっている。アトラン
……その速歩とほとんど司じものだ」して
いるヵウィズザーのその図がもともとアトランティコ手稿の
(33)
の一部であったと考えれぱ、この記述と対応すると考えられる。し
首をふり立てる馬ではなくやは医やや違えてゆっくり歩く
フォルツァの騎馬像をつくるであみうか、一それは考えにく-い。同じ
かし真限などする性格ではないレオナルドがそれとそっくりにス
の姿に
変えたのであろう。
ウ羊ンザー城図のデッサンの中で、何といってもマドリッド
る。これはレオナルドの代表的な
(34)
手稿のに近いのは、減同日田(図6ー凹)の妙なる馬の像であ
の馬の陳で、ふつう渥躙ー目した
らかに歩いており、突き出すはずの前脚は
像ととらえられている。しかし後脚の二本を見てもわかるように明
に描かれなかっただけ
ドリッド手偶の歩C姿と頭郎の位
であると推測できるのである。その左の前脚をのぞくとほとんどマ
を含めて同じ形なのである。將
からであろう。
卸を施かなかったのは、右聞の正面向きの下半部と重なってしまう
この二つの馬のデッサンは圃の部分が未完成で、ご
の分は省略されていると考えてよい。その肉づきのゆたかさ、優
美さ、『スフォルツア騎』のそれをIド分わせてくれろ。その描

P141(上段)
がもっとも丁|であることか副-おそらくこの姿が制作された
の姿があって、その巾に、この歩く姿とほとんど同じ姿をじたも
城一目目崇(図6-26)に初期のものと思われるいくつかの馬の銀
(35)
龍の
がっていない、』あるいは城一目w】(図61四)の「聖ゲオルギウスと
のがある。ただ上げられた前脚は直角ではないし、後脚も十分に上
い』や馬の倒れたところなど一三、四鉢のさまざまな姿を播
いた習作の左下隅比やはり歩く姿がある。このデッサンの年代は字
(36)
者によって見が分かれるが、いずれにせよこのような姿がレオナ
ルドにとっては貴れ親しんでいたものであった口とを示している。
ところでレオナルドは完成した馬のデッサンの庖に、小さく走り
書き臓に描いている忌のがある。『トリヴルツィオ馬像』のための

究のために描かれたのであろう。が、ほとんどみなこのマドリッド
うな小きな馬が鏃かれて"いることが多い。こ即ことを考えると、研
デッサンは比的数多くっているが、そのデッサンの中にこのよ
の馬の姿に近いのである。
まずウィンザーの一口一閥(図6-28)の右下に小さく描かれた
馬の歩ぐ姿がある。この紙葉そのものは、『トリヴルツィオ騎馬薗』
のためではなく、初期のもので〉(クラ1クほウフィッツィ美術館の
『三王礼拝』の(37) 作であろうと述べている)、動かない馬の姿が四体
ーヵり携かれているが、
それとは筆の運びが具なって閤るように見
える。いずれにしても空いた部分に描きとどめたといった風である
P141(下段)
、この馬がやはりマドリッド手稿の一馬の姿に近いのである。
馬朧のために違いない、と言ってい
るが私もする。
これまでの研究者が一致して『トリヴルツ衣オ』のデッサンと考
える一目彪〈図6122)には主要な二体に加えて四体の小さな馬が
〔39〕
なっている(図6l29L a)。
が首記.つけるよ一つ猷安をしているが、左上の二体はややそれと冊
倫かれている。そのうち下の二庫はほぼ上の主要な二熊に腐て頭沓
この二体は主要な二体の左に描かれ、
オのための馬としては首につける姿の
角度が右より前に突き出ていみことである。右の馬はトリヴルツィ
の右の主要な馬との違いは騎士のばかりでなく、その馬の頭部の
比較のために描かれた、という風である一〉まず上の小きな馬と、そ
舎が小さいが、よノヽ[兒ると
をひいた形の頭部がく揃かれているのがわかる。下の馬がこの
ようなをひいた形であるから、この部分があとに披かれたと推定
れる.従って
される。前に突き出した願蔽ら、頴をひく形への変化ほここで延ら
だけ見ればマドリッド手稿のに似ているこの小さ
な馬は(図61凶ーb)、おそらく『スフォルツァのを
描いたのではないか、と推測されろのである。
その下には脚で立った贖が猫かれている。馬のが『トリヴル
フォルツァ
ツィオ騎馬像』の姿のように首につけられているが、この二つは『ス
馬像』のときに構した一一つの案を発させようとL
と、
て小さぐ描いたものではないか、と考えられる。もしそうだどする
この騎士の姿の方もまたスフォルツァのためにした
P143(上段)
のではないかと思われるが、この点は後述しよう。
これと似だ図で小さく描かれている馬は同冒求嘲(図6i30)の右
下のものである"一上の図は『トリヴルツィオ一のものでやは
〈41)
り顎をひいた歩の謁の姿をしている。それに比べると鼻が前に向
ばしてい⑥ところも同
b)の左上の小さい馬に瞥上の姿まで似ている。一方の腕を後に伸
、C、。リ、マドリッド手稿の馬に近い,そして一目畠中(図6-19
で、少くともこの馬と士の姿が、
定のと七てレオナルドにあったことを示している。かにこれ
以外の士の姿は皆異なっているのであろ。
}幽全・崇(図6-23)の下の馬も同じをしている。これまですべ
おり、七の撒と大きく具なっている。
て真横から見た馬であったのだが、これは背後から斜め犯見られて
この図はhめ馬の姿のfな
ルツァ際から派生してきたトリヴルツィオ像のための
ている姿も、そのFに台座の四角い而が措かれでいて、右のスフォ
描き方仁比べて租いが、同じく左の馬が頭を左に向け体が曲げられ
であるこ
2)
とを示しているようだ。
次に}誼赤(図6ー爵)の図であるが、このはK・クラーク
が若摘したように、その文字の措き方や手の内などの比から
『スフォルツァ馬像』と同時代のものと考えられる。この図の下

方に掴かれた馬の図はほ.とんどマドリッド手の朧と似ており、こ
を笙付ける。-やは匂頭部をを直角に出している
.のである;一
の滅回目立-閥(図6-32)の回であるがここに馬の図が二
ワぁり、又その文章の内容も、かに暑の庖についてである。マ
P143(下段)
グッツィ・ヴァレーリやM・V・ブルニョーリはこれを『スフォ
」のため
である、と述べている。私見ではごの鋳造のもトリヴルツィオ
騎馬像のためのものであろ,っ。この馬の安はそれを裏付ける(図6
i33)。とい-つのもこのの部は首に近いよう仁描かれでおり、
下の小渚な馬もまた同様であるからだ"一
又城一目都00 (図6-34)であるが、ののた萄の炉と型の
(45)
断面の図である。そこにブロンズ色かしこむ型との厖が
断面図として描かれている、一ここにある小さなの図は酬脚が省略
されているものの、馬のの形は、やはり随に正常に向かってお
り、首についた形ではない。
き方から典型的な初期のそれであるとされ、
最後に前に述べた式口目呂(図6ー蜃) であるが、:これは文章の
|四九二年のものと
指摘されている。この紙葉とマドリッド手稿の一本貨同士肖とは重複
しており、これが赤チョークのを院って消されているのである。
これはレオナルドがマドリッド手をとして上しよう
として、これを写したに消されたものであろうL、こしても
ここにかれた馬が『スフォルツァ馬賑』のもので、する梨』
な馬はマドリッド手稿の同田くの
きに逆さまに入れるときの様子を示している(図6-35)。上の小さ
に傷ており、
'る.そして上部から見た馬の形ではが左に朗いている。』れは
マドリッド手(一畠戸図6ー団)の同じヒから毘た図ではそれ程
顕著でないが、馬の頭は左に向いていたのであろう(下か、ら見れ
P144(下段)
き)。ところでこの馬がそうであるように、こうした『スフオル
馬像』と思われる馬のデッサンは、左の前脚を出しているも
左脚を前に出していたと考えた方が瓦いであ-ろう。又「
のが右卸を出しているものよりはるかに多く、本当の馬の粘土像も
アンプル
・帥臼田印」すなわち四本卸の一方の閲だ付が一に出される場合と、交互
に出される場合があるが、マドリッド手稿では後者である。つまり
後脚は古脚が上っている・
以よのように馬のデッサン、とくに『トリヴルツィオ馬庫』の
ための局の像と考えられる紙葉の中に、小さく拉かれている馬が
い。また一一スiフォルツァ
の馬の記憶の再生として搭かれたのではないかと考えられ興味深
弗スフォルツァ櫃淵』.の是れと深い関連をもつており、それがこの時
馬像』と同時代と考えられるヂッサンの
あることも、『スフォルツァ
馬がすべて、マドリッド手稿のそれと同じ〈頭をもたげた馬の姿で
馬像』がどのような形の推定を裏付け
(c)
るのである。
騎士の姿
一四九三年十一月に展示されだレオナルドの粘土の禰スフォル
np凋03}}oとしか一百"わないし、
ツァ像』は恐らく馬の部分だけであっただろか・彼は騎馬像を「馬」'
そのデッサンも見て来たとおり雁ぴ鴉
は思われない。彼の最初の後脚で立つ
く姿だけである。しかし彼が構として騎士の姿を考えなか・ったと
馬像(威}目國噌) では

いずれも騎士の姿が措かれている。マドリッド手蒻はあくまで鋳造
P145(上段)
をあつかったものなので、そこ断士が鎧かれなかったとし
ても、始めか唱なか樽た、とは者えられない。注文者イル・モーロ
一四八九年のロレンツォ・デ・メディチにあてた手紙で《それは

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽゝヽヽヽヽヽヽ
したフランチェスコ公を東せた非悶に大きなブロンズの馬》(陪
(50)
者)を所望しているのであろから、作者レオナルドも当然
していたに違いない。
しかし,トリヴルツィオ馬像』のための何点かのデッサンをの
ぞいて、すべてにわたって馬だけ措いていたのは、いかにレオナル
ドが巨大な馬の造の大のみに心を砕いていたかを示してい
むずかしいものでなかったことを推測させる。恐らく馬の
ている.そのことは逆に騎士の姿が、レオナルドにとっては計ほど
る。そして士の欧は別個につくられる予定であったことを物語っ
の問
さえすれば困なく制昨しうると考えていたのであろう。

オナルドはヴェロッキオの『コッレオーニ』の想の、明
らかにそれに参加して、見事な武したをつくっていたと恩
われるが、その上のプロフィールが、敗の00古代の士』 (図61
5)のデッサンと似て圓ることはす"でに述べた。「武饅したフラン
である。
チ一一スコ公」とはすでに餅らかの形で考えられていたと思われるの

ではどんな騎士の姿であっただろうか。去ず、スフォルツァ馬
の唆脚で立つ馬(威一幽廻)一冒國劃図6-9・用)の騎士
参考になるであろう。左手でく手綱を引き、撰欅をもつ右手
かし後
を後にふって、後の兵士を一して冒るかに見える像である,し
で立つ試上、姿とは具なる加もしれない。では何
P145(下段)
考にすればよいか。.それは先程分析した『トリヴルツィオ
い七思われる。『トリヴルツィオ騎馬贖』はあくまで『スフォルツァ
徹』のための中の小さな馬の中に近い姿が示されていると考えてよ
馬像』をつくった実の上に立っているからである。スフォル
ァァのそれが実現されなかったが故に、ほとんど同じ姿でされ
『トリヴル-ツィオが『スフォルツ.ァ馬瞭』と同じく、後
脚で立つ賑をまずし、次に南少くに変わるという同じプロセス
も同じように前脚を直角に前に突き出し、後脚を上げており、阻を
をたどっていると考えられることにもそれが示される。その歩く
』ふり上げている。しかしこれまで述べてきたように、今度は顎を引
き、より動きを示しているのである。
城}Nw危(図6-22)・には、左上に頭を正こあげた小さな
(図6-29lb)が示されており、そこに騎士が飛っている..その
騎士は「武』しており、左手を後に仲ばしている。恐らく指
をもっているのであろうが、この士の姿は、『トリヴルツィオ』の
ために色々されている姿よりも明快でありがあふれてい
とまりある塵となっている。左手で錮
る。馬の青後の単さをその後に咋ばした指揮棒で動きをつけ、ま
を持っていたりの脚が
といえようが、それは粗描である点で致仕方ないであみう。
他のと異なり、.方_の左側光けが上がっている点などは、不用
この点
ではこれと同じ姿をしている一目京(図6-30)の右下方の小さな
馬朧では正されている。右手で指をもち、
古代風の衣をひるがえしているし、馬の前脚も左でなく右脚が前に






(ここが、penultimate):ギャップルがappleが、E@🅰(この0xは?)
P146(下段)
てUる。この士の姿はトリヴルツィオのためのデッサン隠渓垣
り返さ札ており、一つの固定した姿であること
を示している。士の姿が三朧にわたって同である関は陰にな
この指揮棒を右手にもっている姿は、トリヴルツィオ騎馬朧の最
iH・渭)にすでに示されており、レオナルドの一貰した
初の段階である後脚で立つ図、妬}冒國(図6ーH)一目呂(閾6
想であっ
たと思われる。『トリヴルツィオ局像』のための城臼wmoで小さな
馬像の二つに問じような指揮をもつ姿が繰り返されている。

叛一目沼の歩くの姿(図61捻) にも同な一がある。
の二つはやはり後脚で立つ場合と、歩く姿の両方である。又
これらヵ
スフォルツァ騎馬像の姿から来たものであるごとを示唆する

指揮棒を前に出す姿で、
ツィオ』のためには別の姿が桐想されているのである。それは逆に
な主要な馬の姿に描かれていないことが芋げられ眉。『トリヴル
して、一度としてこ霞が『トリヴルツィオ嶌像』のための大き
この一巴目宕(図61目)にも主要な馬め
叛一陪渓昭(図6-・捻)の単に歩くにもあらわされて
一.つばかりでなく、憤口腿誤(図6IH)の後脚で立つ構想の.一つ、
このように馬と騎士の姿が推測できると、後は細部だけの

この士が「武装している」と考えられる以上、コッレオー
ニ同様、、かぶとをつけていたに違いないし、その意味では
妬}腿蛸目(図6lH)の『トリヴルツィオ馬贖』のためのデッサ
ンの中のより細かく描かれた図の兜をつけた姿や、大物館にあ
る『スフォルツァ馬像』のための版画のひとつなどそれを予想す

P147

証となろう。又『コッレホーニ馬像扁自身やルーベンスの手で るのに役立つ。とくに『コッレオーニ 模写された『アンギアリの戦い』の図の騎士などもその姿を予寸 馬像』の士にそっくりな 『古代の士』(図6-4)はやはり参考となろう。ヴェロッキオ壬 モ美 愕でのレオナルドの大きな役割を考えるとフィンンッェ、ドゥオー の敵り"『洗礼者ヨハネの首』(図6-7)にある右 の 戦士に峯、その例が示されるのである。 いずれにせよレオナルドはフランチェスコ・スフォルツァ公の を実際に似せてつくることなどは顯慮しなかったであろう。フラン 6137)で チェスコ・スフォルツァの肖像は、金貨やポライウォーーロの図(図 い知れるが、禿げ上がったに『庶民好きのする臭知 せた図と思われるものがないばかりでなく、比 のような頓』をしていたとUう。残されたデッサンの中にそれ比似 的最近死んだ(一 匹七五年)コッレオー二の騎馬像でさえも、ややグロテスクと もいえる「古代の士」のを簡ったのであるから。この像がレオ ナルドの自画像の変形であることをゴンブリッヂが指している ミア美術館、 が、やはり騎士の朧である「禿の舅」の像(ヴェネツィア、アカデ (55) 3)股、それはトリノの町自画撰幽を予想せさ るをえないのである。従ってそのは、レオナルド自身のをグロ らである。『アンギアリの うのもレオナルドは、戦争自体に決して価を与えていなかったか テスク紀近づけたをしていたと推測せざ渇をえないだろう。とい い』の描写でもわかるように、それは (56〕「動物的な行為」であっ'て英雄的な行為ではなかったからである。 又の模様について述べれば、威一目苫嘲(図6-39) の図が示唆的

P148

もヴェロッキオ工一居の時代『受胎告知』の亘陰のを思い 起こさせ「古閃の土」(図6-4)の胸のを思わせるが、アト .ランティコ手舅にも一四九七竿頃と思われる同撮な女性④財布の できツ会璧あろう〈一 様があり、同時期のスフォルツァ騎馬像に筐われたと考えることが おわりにこのようにほぼ『スフォルツァ 臣』の全容が さ 〈58) 土像を写したものもなく、彼自身の正隧な れるのである(図6-40a・b・c・・d)。むろんレオナルドの 図も残されていない のであるから推定でしかないが、マドリッド手稿が一貫した摩を示 す以上、の姿はこれ以外にありえな巨し、浸の同じ姿の馬の上に 上いう記述であれば、 ト分に暑の基本的な姿になりうると思われる。又『武装した騎士」 俄った騎士が後に楷かれて、何度も繰り返されている以上、それが これ以外には考えにくいのである。 この隊がスフォルツ・ァ城の前の広いダルミ広に置かれる予定 であつたことは、この広の大きさからも、:順の一の重要さから 〈59〕 馬の畝を実際に見、測定することさえ出天たルカ・パチョーリは、 十分考えられることである。 一四九八年、これがレオナルドのマドリッド手稿での記述と同じ く、地上からまで、一二ブラッチャ(七-二爪)の高さであるこ 一とを述べ、さらに二⑪万リブレ(七{・五t)のブロンズが稿めら 〔60) コ・イル・モーロは義父のエルコレ・デステに一五万八七〇〇リブ

P149上段

レのフロンズを大砲鋳町造のために送ってしまった一}それは約五分の されたことは付属晶を差し引いても一六 万リブレ(五七t)程の馬像であったとV・L・ブッシュは推測 (61〕 しているが果たしてそれをすることが可能であっただろうか。 もし七・二mの馬に騎士の像があったとすれば、概算で一五醒の となり、ブロンズが一鍵八・六tの重さをかけると一一一九tに なる。つまり中を抜かないでブロンズだけの騎馬像がこのさとな る。従って五七tの霊さのブロンズは、その半分弱となり、一大変厚 たとしてもそれぞれの脚に単 いブロンズの馬であったことになる。もし四本の脚が地についてい して一・①数tの圧力がかかるこ これが二本の脚でしか支えない場合、自雪で崩壊するこ (62〕 とはであろう。 というのもこの七・二mの高鉱のブロンズの必要皿を、はるかに ことができない.六lでも危険で、倒れない安全な宜さは三tであ 二本の卸で支えるとなると、胴自身が垂直でも六tまでしか支える その層を薄く考えて一一tと見もることができる。しかしこれを (63) る、という計算がなされている。従って多くのがその区みを 考え、三本の脚、または後脚一一本と尻尾を支えにするか、又は二本 〈64) 脚に支えをつかって重みを支えているものが多いのはそのためであ このでいくとレオナルドの、この二木脚で歩くがブロ ンズでしても不可能であった}J志になる。レオナルドはそ れを知らなかった、としか考えられない。鋳造法をいくら考えて

 

P149下段

その皿さに対するがなされていなかったように見える。ブ る。もしかすると、小さな馬でそれがモテルとして作られれば、 (65〕 ダペストにある立つ馬のブロンズ贖があるが、それは小さな徹であ そ れがいくら大きくなっても、同じような比例で大きくつくられるの 辱ない時代であり、すべてが鋳物工の 慢可能と考えたのかもしれない。引力とか重力とかがまだ知られて にっていた時代であっ る。 の程度変把するかコンピューターが計算する時代と全七異なってい たから柔ある。今日の脚にどの程度、力が加われば、他の部分がど 私たちはもし七:1のブロンズが〈大砲に変わらぬ平和な時代で あっても、そのがブロンズ像として立ったとは思われない;《馬 (66〉 註 えることができるであろう