表象/戦場

 新宿の街を一人で夜さまよう。そういえば、去年一人でインドにいった時には、夜中、いきなり停電して、半狂乱でホテルを探して走り回ったなぁと。

 走っている最中に、インド人が親切を装って話しかけてくる、ここはバラナシ。全てがガンガーの流れに回収される場所。存在の小ささと、自意識の大きさ。

 あからさまに日本人なのに、道を聞こうと思って話しかけても、無視する。ここは、戦場なのだ。我々が、日本においては隠された、暴力や、死、そして生が良くも悪くも開放された場所。

 あくまで隠されたものでしかない。清潔に見えるだけに、たちが悪いのである。

 ぼくらは、言葉で暴かなくてはいけない。暴力も、死も、そして生も。

 野蛮で、繊細で、緻密で地道な戦争。ぼくはそのためにペンをとって、戦う。それが、今まで、そしてこれから生きてきた/いくことの責任なのである。

 表象には責任がある。表象するにしても、しないにしても。表象、それは闘いの場なのである。

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「深刻」な枠組み もしくは空疎なグリッド

 枠組みのみを深く掘ることによって、「面」を構成しようとすること。その枠組みの原理を説明しないこと。雰囲気による支配。滑稽で危険な深刻さ。

 感性という名、解決不能とするのならaesthetiqueの存在意義はない。

ドイツ研究の可能性

 ドイツ研究の可能性は、ドイツがいかにもそれを「露呈」してしまったところにある。

未だ世界のどの国も「露呈」されたはずのものに気づかないか、それを利用さえしているからである。


「意志」

「○○をしなければならない」という言葉には、全てにある種の「意志」がつきまとう。そして、一見その形式を持たなくとも、単語に「意志」が宿っている場合もある。

それを見抜かなくてはならない。

もちろん、この言葉にも「意志」が宿っている。自由を求める闘争のための「意志」が。

省察

 表面的な理由のようなものに納得してはならない。

省察的態度。

哲学、それは処世的態度であってはならないのである。