(初出:2015年12月29日)
(1)
中崎沙耶が夜勤を終えて自宅のマンションに帰宅した時、相樂純はいなかった。時計を見ると、午前九時を回っている。
今の純は吸血鬼の弱点が解消されたおかげで、たとえ夜明け前に帰って来られなかったとしても太陽に焼かれて灰になってしまうことはもうないが、それでも彼の活動時間は依然として夜間にほぼ限定されている。陽光の下を移動するのを忌避して、今頃は日の当たらないどこかに潜り込んでいるのかもしれない。
気にならないこともないが、明日も──と言うよりもう今夜なのだが──夜勤なので、昼間しっかり眠っておかなくてはならない。召使いの黒猫・ザフィーアと烏のブリックに純の捜索を命じた後、入浴と軽い食事を済ませて、沙耶はベッドに入った。僅か短期間のうちに、純と共に暮らす生活にすっかり馴染んでしまい、彼の不在がこれほど寂しいとは我ながら驚きであった。
──純……早く帰って来て……。
いつしか、吸い込まれるように眠りについていた。
やはり、目が覚めてしまった。時刻は午後の十二時一〇分。二時間ほどしか眠れなかった。夜勤で昼間眠る場合、少しでも気になることがあると、なかなか熟睡できないものである。目を閉じていても、次から次へとあれこれ考えてしまう。
仕方がないので、沙耶はベッドから抜け出した。まずは、僕(しもべ)の動物たちの現在地と捜索の状況を確認する。彼らとは離れていても意識を通じ合わせることができるため、リアルタイムでの情報収集が可能なのである。目下のところ、黒猫ザフィーアも烏のブリックも純の発見には至っていない。
続いて沙耶は、振り子や水晶玉など、今すぐに実行できる魔法を総動員して彼の行方を探ってみたが、思わしい成果は得られなかった。
──このままではとても眠れそうにない……どうしよう……。
活動をやめようとしないのも自分の脳なら、眠りを要請するのもまた脳であった。覚醒と睡眠のアンバランスな状態を持て余して落ち着かず、身も心も不快である。
それでも体を横たえて目を閉じていれば、ずっと起きているよりは疲れも取れるだろうと、再びベッドに入った。全身の力を抜き、呼吸もゆっくり静かに保つ。
勤務中にようやくザフィーアがメッセージを伝えてきた。僕(しもべ)の黒猫は現在、異様な動きをする女を追跡していた。
その女の両眼は真っ赤な光を放っている。吸血鬼だ。だから日中は反応が薄くてキャッチできなかったのか……眠っている場所ぐらいは探し当てられそうなものだが……。幾つもの疑念が頭を過ぎったが、今は考えている暇はない。まずは女吸血鬼を捕らえなくてはならない。すぐさま沙耶は医局を出て、誰もいない廊下から現場へ、“跳んだ”。
黒猫は標的を見失っていた。だが、まだ近くにいることは気配でわかった。白衣のままの沙耶は、鋭い視線を周囲に巡らせた。
「こん畜生! 捕まえたぞっ!」
工場の敷地を囲む塀の陰から男と女がもつれ合って道路に転がった。女の方は沙耶が捜していた吸血鬼だ。一瞬、男が女吸血鬼の上体に馬乗りになったが、あっさりと跳ね飛ばされた。沙耶にはそれだけの隙があれば十分だった。短い呪文を唱えて相手を金縛りにする。
「凄えっ!」
男が膝をついて起き上がりながら叫んだ。
「どうやって動きを封じたんだい?」
直立した男はまだ若く長身だった。純よりも更に上背がある。
「ちょっと魔法でね」
沙耶は微かに笑った。
「吸血鬼をこんなに簡単にふん捕まえるなんて、凄すぎるぜ。俺なんて三回も投げ飛ばされたってのにさ。おーいて」
男はジーパンの尻を摩った。Tシャツの上に羽織っているのは褞袍(どてら)だった。長髪に眼鏡を掛けていてどことなく愛嬌がある。
「知ってるんだ、このコが吸血鬼だってこと?」
「いや、最初はフツーの女の子だったんだよ。こないだナンパして、ちょっと付き合ってたらさー、いきなり吸血鬼になっちまうんだもん、びっくりしたよー。……まあ、そんなことはいいんだけど、こいつ大事な物を持って行きやがってさ。だから追っ掛け回してたの」
『ちょっと付き合っていた』? 『そんなことはいい』? 一体どういう神経をしているのだろう。沙耶は男の顔をまじまじと見つめた。
「君、美人だね」
男の方も眼鏡を押し上げながら無遠慮に沙耶を眺め回した。
「彼氏とかいるの?」
確かに並の神経ではない。
「いるけど」
「何だ、いるのか……」
ちょっとがっかりしたように肩を竦めた。
「それにしても、結構ボーイッシュなんだね」
「よく言われる」
「ま、いいや。さっさと用事を済ませて帰ろ」
男は、固まっている女吸血鬼の方に手を伸ばした。その手に食いつこうと女吸血鬼はカッと牙を剥き出した。
「おっと。……へへ、動けるのはそこまでか」
女吸血鬼の背後に回り、用心深くボールペンの先に鎖を引っ掛けて、女吸血鬼の首に掛かっていたネックレスを外した。
「大事な物って、それ?」
「うん。親父が若い頃、お袋の誕生日にプレゼントしたんだ。二人とも死んじゃって、これがたった一つ残った形見なの」
説明しながら自分の首にネックレスを掛ける。
「ふーん」
「あ、俺、尾梶安男(おかじ・やすお)。君は?」
安男という若者は無邪気な笑顔であっけらかんとしていた。吸血鬼に遭遇したというのに平然としている。化け物を素手で追い回して三回反撃を受け、それでもけろりとしている。何か特別な運と才能の持ち主なのかもしれない。
「私は、中崎、沙耶……」
彼女はやや躊躇いながら名乗った。
「沙耶ちゃんか。これでもう俺たちアミーゴだぜ。ほいじゃ、またね」
安男はそそくさと立ち去った。呆気に取られて見送る沙耶。
──なんなんだ、あの男……?
女吸血鬼の歯軋りする音で我に返った。
「質問に答えて貰うよ」
沙耶は相手を見据えた。
「相樂純はどこ?」
「知らないね」
女吸血鬼はそっぽを向いた。
「もう一度聞く。相樂純はどこだ?」
彼女の瞳が一層強い光を放った。女吸血鬼は口をぱくぱくさせているが、声が出ない。沙耶の自白を強要する魔法と、喋るまいとする女吸血鬼の意思が葛藤しているのだ。
「声を出さなきゃ聞こえないだろ?」
追求が更に厳しくなる。
「……あの坊やが……」
「え?」
沙耶は眉を顰めた。
「御主人様に任されてるの……だから、純は……真作クンと一緒よ」
「御主人様? 誰のことだ?」
「あわわわ……」
女吸血鬼は答えられなかった。強い抑圧が掛かっているらしい。御主人様というのは、おそらく、より上位の吸血鬼であろうが、よほど強力な支配を受けているものと見える。
「じゃあ、シンサクくんってのは?」
「高校生の……」
「その子が純を捕らえているというわけか?」
「ひいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!」
女吸血鬼は絶叫を迸らせたかと思うと、一気に干乾びてミイラのようになり、更に灰となってボロボロと崩れ落ちていった。
「まだ夜も明けていないのに……?」
沙耶は半ば茫然と、小山となった灰を見下ろした。
(2)
浅くて長い眠りが、ずっと続いているような感じであった。相樂純は、自分がどこにいるのか全くわからなかった。だが、次第に自分が拘束されているということがわかるようになってきた。そのことを認識できるようになったのは、拘束されていることに慣れてきたせいか、拘束力が弱まってきたのか……?
どんな状態で拘束されているのかは、感じ取ることはできない。意識も希薄だし、五感もほとんど働いていない。横たわっているような、身体を丸めているような、はたまた、宙に浮かんでいるような……。
更に気付いたことがある。すぐ側に誰かいる……。
──誰だ……?
また何もわからなくなった。
浅くて長い眠りが、ずっと続いているような感じであった。相樂純は、自分がどこにいるのか全くわからなかった。だが、次第に自分が拘束されているということがわかるようになってきた。そのことを認識できるようになったのは、拘束されていることに慣れてきたせいか、拘束力が弱まってきたのか……?
どんな状態で拘束されているのかは、感じ取ることはできない。意識も希薄だし、五感もほとんど働いていない。横たわっているような、身体を丸めているような、はたまた、宙に浮かんでいるような……。
更に気付いたことがある。すぐ側に誰かいる……。
──誰だ……?
すると、拘束力がやや強まってきたような気がした。また何もわからなくなった。
浅くて長い眠りが、ずっと続いているような感じであった。相樂純は、自分がどこにいるのか全くわからなかった。だが、次第に自分が拘束されているということがわかるようになってきた。そのことを認識できるようになったのは、拘束されていることに慣れてきたせいか、拘束力が弱まってきたのか……?
どんな状態で拘束されているのかは、感じ取ることはできない。意識も希薄だし、五感もほとんど働いていない。横たわっているような、身体を丸めているような、はたまた、宙に浮かんでいるような……。
更に気付いたことがある。すぐ側に誰かいる……。
──誰だ……?
すると、拘束力がやや強まってきたような気がした。
──誰なんだ……?
意識が麻痺してくる。だが、痺れた意識は薄れていきそうでいて、完全には消え去らない。一体いつまでこんな状態が続くのか……?
ようやく今回の夜勤が終わった。結局、勤務中の外出はあの一度きりで自粛した。人並みの責任感があれば、職場を断りもなく私用で抜け出すのは気が引けるのが当たり前だ。ましてや自分はドクターである。いつ急患が運ばれてくるかもわからないのだから待機していなければならないのだ。自由時間になった今、いよいよ〝戦闘開始〟、というわけである。
沙耶は疲れていたが、意識が冴えて全く眠くなかった。ただ、シャワーだけは浴びたかった。長い勤務が終了すると、なんとなく顔に脂が浮いているような気がして気持ちが悪い。ロッカールームで白衣を脱いで着替えを済ませると、さっさと病院を後にする。
「あっ、中崎先生、待って!」
看護師の静波渚(しずなみ・なぎさ)が追いかけてきて、沙耶の腕に手を絡ませてきた。同世代だが、私服になると未成年のように見える。小柄な渚は、身長168センチの沙耶をきらきらする目で見上げた。ショートヘアに彫りの深い凛々しい顔立ちの上、男物の白衣を着ていたりするので、沙耶は病院の女性職員や女性患者からは宝塚の男役のような人気があった。バレンタインデーにはチョコレートを貰ってしまったりする。
「まだ彼氏できないんだ?」
沙耶は少女のような看護師の憧れめいた眼差しに苦笑しながら言った。
「どっかにいい男(ヒト)いないかなー」
「一人いるけど、それは私のものだからね」
勿論、相樂純のことである。
「げっ、いつの間に!」
渚は黒目がちの瞳を大きく見開いた。
「いーなー。ほんとにどっかに転がってないかなー。湧いて出てきてもいいからさー」
「なんなんだ、それ」
「それじゃあ中崎先生、今からデートですか?」
渚はやや挑戦的な表情で、組んだ腕を締め付けた。
「そんな浮ついたものじゃないけど、居場所がわかれば会いに行くよ」
そうだ。必ず探し出す。沙耶は自らの言葉に頷いた。
手掛かりが増えた分、前回の探索ほどの困難さはなかった。洗い髪にタオルを掛けたまま、水晶球に両手をかざすと、沙耶の眼には幾つかの映像が見えてきた。早速その映し出された場所に向けて、烏のブリックを斥候として放った。
更に必要な情報を取り込みつつ、ドライヤーで髪を乾かし、必要最低限の薄化粧をしてから、TシャツとGパンに丈の短いシャツジャケットを羽織っただけの軽装に身を包み、最後に両方の耳たぶで鈍い艶を放つ黒い宝玉の耳飾りに触れた。ゆっくり深々と呼吸し、心身の気を充実させる。それに呼応するように耳飾りが輝いた。唇をきゅっと引き結び、徐に沙耶は歩き出した。
慌てることはない。安全運転で車を走らせていく。時間にしておよそ十五分ほどで目的地に着いた。閉鎖された中学校の裏門前に駐車して、施錠された門扉に片手を掛けてひらりと飛び越えた。
目指すは体育館の用具室。廃校となってまだ日が浅いらしく、校庭も校舎もさほど荒れ果てた印象はない。
小さな窓しかない用具室の中は晴天の正午前後でも薄暗かった。残された体育器具が散乱し、うっすらと埃の積もった床に、相樂純と少年が並んで横たわっていた。
純を拘束しているのはその少年だ、というのが沙耶の見立てである。そして、少年もまた束縛されている。まずは少年を束縛から解き放って覚醒させることが先決だと判断した。
「目覚めなさい」
重々しい声で沙耶は呼びかけた。少年は全く反応しない。彼女は左手の指先で黒石の耳飾りに触れながら、右手を少年の額に押し当てた。少年の瞼がひくひくと動いた。
──そこにいるのは……姉ちゃんかい……?
声にならないまま、少年は問うた。ぼんやりとした視野に浮かび上がる若い女性の姿を、最初は姉だと思った。
「目を開けて、起き上がろう」
少年は目を凝らして、語りかける声の主を見つめた。
──やっぱり違う……。
失望の吐息が漏れる。
──もう姉ちゃんは死んだんだ。こんなところにいるわけがない……。
だが、再び無気力が支配する前に、少年の意識は相手に引っ張られた。その女性の澄んで輝く瞳は、最愛の姉によく似ていた。懐かしさのあまり涙が溢れ出す。
「姉ちゃん……」
頭にかかった靄を吹き飛ばさなくては、相手の顔をよく見ることができない。少年はもどかしそうに、両手で払い除ける仕草を繰り返した。もっと近付いて、もっとよく見たい。久し振りに能動的な意志を持ったような気がする。足掻いているうちに、徐々に身体に力が戻ってきた。
思い出した。あの日、異様な雰囲気の男が目の前に現れたのだ。そして、一瞥するなり、少年の心を縛り上げた。最大の理解者であった姉を失って、悲しみと絶望で自暴自棄になっていた彼は抵抗する気力もなく、闇に沈み込んだ。
だが、それももう終わりだ。どんなに強い力で抑え込まれようとも、絶対にあんな奴の言いなりにはならない。もう決して支配されることはない。
何度も何度も、呪文のように繰り返し唱えた。オレは誰の支配も受けない。オレは自由だ。オレは……。
少年は立ち上がった。脚はがくがくしているし、息切れがしてふらつくが、曲がりなりにも自分の足で立っている。
「君、シンサクくん?」
問いかける相手をよく見たら、混血児(ハーフ)みたいな顔立ちだし、姉とは似ても似つかない。だが、オレの中では“姉は甦った”。そんな気がする。そして、オレも甦ったんだ。
「ああ」
少年はこくりと頷いた。
「彼を返してもらうよ」
沙耶は純の傍らに膝をついた。
「純……起きて……わたしがわかる……?」
彼の頬をそっと撫でた。
「沙耶……」
純は不思議そうな面持ちで彼女を見上げた。
「おれ……どうしたんだろう……?」
「何も覚えてないの?」
「……そうだ……」
純は一瞬目を閉じた。
「あいつが、おれを封じ込めたんだ。ラジルっていう名の、吸血鬼の親玉が……」
そして彼は、力の入らない腕で懸命に上体を起こそうとした。沙耶が手を貸す。
「なにしろ本家本元の吸血鬼だから、とにかく強い。おれは全然逆らえなかった」
「そう……とにかくここから出ましょう」
「こいつも、吸血鬼なのかい?」
沙耶が運転する車の助手席に座った真作少年は、後部座席で背を丸くして眠る純を見やりながら尋ねた。沙耶は小さく頷いた。
「なんで真っ昼間に外へ出ていられるわけ?」
「まあいろいろ訳ありでね」
沙耶は曖昧な笑い方をした。
「ふーん……」
しばらくして、真作はもじもじと落ち着かない様子で言った。
「ちょっと、頼みがあるんだけど……」
「なに?」
沙耶は前を向いたまま訊いた。
「あの……オレの……姉貴になってくれないかな……?」
「ええ?」
彼女は少年の方に顔を向けた。一瞬じっと見据えて、安全確認のために前方に視線を戻し、また少年を見るという動作を繰り返した。少年の方も盗むように彼女を見ては、すぐに目を逸らしてしまう。
「私、恋人いるんだけど……」
沙耶は顔の動きで純を指し示した。
「あ、いや、そういうことじゃなくて……オレの姉ちゃんだって婚約者いたし……」
「義きょうだいってこと?」
「まあ、そんな感じ……」
「亡くなったお姉さんの代わりに?」
「う……うん……」
真作は鼻の横を掻いた。沙耶は薄く笑いを浮かべながら黙って、しばらくは運転に専念した。
「一つ聞きたいんだけど……」
沙耶は思い出したように呟いた。
「うん?」
「いくら大好きなお姉さんが亡くなったからって、なんであんたまで死んじゃうんだ?」
「え……?」
いささかきつい言い方に、真作はややたじろいだ。
「さっきまでのあんたの状態のことだよ、真作クン」
沙耶はまた少年を見据えた。
「私、そんな意気地なしの弟なんて要らないな」
彼女の突き放すような台詞に、真作の表情が泣きそうに歪んだ。
「きっとお姉さんだってがっかりして、情けないと思ってるはずだよ」
「確かに……」
やっとの思いで真作は言葉を発した。
「オレは意気地なしだった、どうしようもなく……だけど……だけど、オレ、約束するよ。必ずもっとマシな男になるって。絶対に姉ちゃんをがっかりさせたりしないから……!」
少年の目から涙が零れ落ちた。
「わかった」
ぶっきらぼうに言ったが、沙耶も涙ぐんでいた。
「それなら弟として認める。たった今から私は、あんたの姉上様だ」
「ありがとう……」
真作は照れ笑いと共に涙を押し拭った。
(3)
夜が来て、目覚めると同時に、純と真作に逃げられたことを察知した。本家本元の吸血鬼・ラジルは鋭く尖った牙で歯軋りしながら、左側の下瞼を半ば無意識に擦った。右目と左目の大きさや色が不自然に違うのは、左の眼球はキツネのものだからである。更に説明を加えるなら、右耳は女のものであり、左腕は左利きの別人のもの、そして、左足には義足が装着され、臀部と左右腿裏・右膝下の皮膚は移植されたものである。数百年前の医療技術の不完全さを補ってラジルを一個の生物ならしめているのは、吸血鬼の不死身の生命力である。
継ぎ接ぎされた左目下瞼の黒ずんだ皮膚を神経質に掻き毟りながら、寝床にしている石棺の回りを苛々とうろつき回る。
──この始末、どうつけてくれようか……。
何としてでも、純は奪回する、必ず。さすがはユキエの子だ。身近に置いておけば、立派にラッキー・アイテム……御守りの役目を果たしてくれそうだ。純の母・相樂雪絵は、特殊な力の持ち主であった。かつてない活力の充実感をラジルにもたらしてくれた。同じ力を、純もまた受け継いでいるのだ。雪絵がいない今、純こそ、我が幸運の源泉となるであろう。
──必ず、取り戻すぞ!
来日した後、ラジルが純の所在を突き止めるのにさしたる苦労はなかった。相樂雪絵が純を身籠ったと思しき頃に、ラジルは雪絵を文字通りその毒牙にかけ、それにより、雪絵もまたヴァンパイアとなった。すなわち、ラジルと純は同じ因子で繋がっているというわけだ。そして、〝親〟にあたるラジルの方が強いパワーを有することは言うまでもない。廃校の一室を隠れ家に決めた彼はその強い支配力で純を引き寄せた。だが、夜明けと共に眠りに就くラジルの力は弱まり、純は日差しを避けながら体育館を抜け出して廃校から逃亡した。
何故か吸血鬼の弱点を持たない純を確保し続けるために、ラジルは日中の純の拘束を人間の特殊能力者に委ねることにした。そうして探し当てたのが、霧島真作(きりしま・しんさく)であったのだが……。
──なに、もう一度捉え直せばよいだけのことではないか。
ラジルは己の感覚を研ぎ澄まし、二人の居場所を探った。
宿無しの真作までがマンションに転がり込んだのでは狭くて仕方がないので、彼らは相樂邸に引っ越すことにした。取り敢えず必要最低限の荷物だけ自家用車に積み込んで、残りの家具等は休日に業者に頼むよう予約して、すぐさま新生活に移った沙耶は、妙に浮き浮きする気分だった。相樂邸はさほど新しくはないが、広さも造りの頑丈さも申し分なかった。少しずつ、自分の人生に確固たる基盤が築かれていくのが嬉しかった。天職と呼べる仕事と、相応しき伴侶を得た仕合わせは格別のものがある。
「たぶん、あのラジルっていう親玉の吸血鬼はまた来るだろうな」
少し早めの夕食を取りながら、真作が呟いた。純もまだぼーっとした状態だが起き出してきていた。今週夜勤の沙耶は既に支度を済ませ、コーヒーカップを手に、少年の旺盛な食欲を眺めている。
「兄貴に対する執着心ってやつは、並大抵の代物じゃないと見たね、オレは」
「何だよ、そのアニキってのは?」
だるそうに欠伸をしながら純は言った。
「姉貴のダンナだから兄貴。それだけのこと」
「ふーん……ま、いいけど……」
純は肩を揉みながら首をコキコキ言わせた。沙耶はまんざらでもなさそうに小さく笑った。
「それにしても『執着心』たあ、気持ちが悪いな」
「ま、御執心つっても、変なシュミじゃないらしいけどね」
「どうしてあんたにそんなことがわかるんだ、真作くん?」
沙耶は押しかけ女房ならぬ押しかけ舎弟の少年を見やった。
「奴の精神支配を受けていた時に、テレパシーが働いてたみたいなんだ。だから、ラジルがわざわざ口に出して言わないことまでこっちに伝わってくるんだろう。ましてや、あれほどの執着心ならなおさらだよ」
「執着心か……迷惑な話だ」
純が舌打ちする。
「全くだわ」
沙耶は椅子から立って、コーヒーカップを流し台に運んだ。
「真作くん、食べ終わったら食器はこの中に入れておいて。帰ったら私が洗うから」
シンクの中の、水を貯めたプラスチックのタブを指差した。
「うん」
「さてと、おれも出かけるとするか」
純も立ち上がった。
「どこ行くの、兄貴?」
もぐもぐと真作が尋ねる。
「バイトだよ。今日はコンビニの店番さ」
「オレもバイト、雇ってくれないかな?」
真作は残りのおかずを全部口に詰め込んだ。
「もう一人来るからな。三人は無理だろう」
「じゃあ、雑誌の立ち読みでもして待機だな」
「何だか心配だわ」
沙耶は純と真作を見比べた。
「まあ、姉貴もついててくれりゃあ、心強いのは確かだけどね。何しろ、ラジルは親玉なんだから、一対一だと、オレも兄貴も敵わない。だから、チームプレイで行くしかないんだが、でもまあ、仕事じゃしょうがないよ」
「そうだ。お前、これ持っていけ、真作」
純は箪笥から小さな風呂敷包みを取り出した。
「ナイフ……?」
包みを解くと、鞘に収められた古い細工の短剣が現れた。
「悪魔祓いの短剣だ。おれの父親が昔ラジルと戦った時に使ったという話だ」
「へえー……」
真作は短剣を鞘から抜いて、窓から差し込む夕日に刃先をかざしてみた。
「それで、親父さんは、勝ったのかい?」
「ラジルを追い払うのには成功した。だが、短剣の威力で噴き出した炎に自分も焼かれて、死んだ……」
「命懸けってことか……」
真作は唇を噛み締めた。
「すまんな、真作。何の関係もないお前を巻き込んでしまって」
純の眉が微かに翳った。
「オレに特別な能力があるのは兄貴のせいじゃないよ。ま、巻き込まれたのは確かだけど」
真作は小さく肩を竦めた。
「でも、今は自分の意志で積極的に関わろうとしているんだ。オレはさあ、乱世向きの人間だって言われたことがある。ちょっとぐらい危険な方が持ち味が活きるっつーか」
「生まれついての戦士か……」
「自分の人生は、自分で切り開きたい。いい風が吹いてくれるのを、のんびり待ってなんかいられないよ」
バイト先には、自転車に二人乗りして行った。
「もうじき店長が帰るから、そしたら店内で待機だ」
真作にそう告げて、純は店の裏口から店舗の中に入った。
「おはようございます。……あれ? 安っさん……?」
制服に着替えてカウンターにやって来た純は、そこに立つ背の高い若者を見て怪訝そうな顔をした。
「よお、純」
尾梶安男が威勢よく手を振り上げた。
「今日俺、交代要員ね」
「斉藤くん、葬式ができたらしいんだ。尾梶くんがたまたま空いてて助かったよ」
店長が愛想よく言った。純は午後八時から勤務開始である。
「じゃあ、後は頼んだよ」
「お疲れ様でしたー」
純と安男はカウンターの奥に引き下がっていく店長を見送った。入れ替わるようにして、真作が入ってきた。
「いらっしゃいませー」
「実はあいつ、おれの連れなんだ」
純は安男に言った。
「勤務中に一つ用事を片付けなくちゃならないかもしれないんで、その相棒なんだよ」
「トラブルかい?」
安男は興味津々といった表情で目をくりくりさせた。
「そう。結構ヤバいことになるかもしれないんだ。斉藤さんの代わりに安っさんが入っててくれてよかったかも」
「そりゃそうだ。俺なら店長にチクったりしないからな」
──ジュン……ジュン……
ラジルの呼ぶ声が純の脳裏に響いた。
「真作、来たぞ」
雑誌を立ち読みする少年に声をかける。
「思ったより早いな」
時計を見ると、まだ十時を少し回ったばかりである。真作はジーパンの尻ポケットから短剣を取り出した。
「おいおい、ヤクザでも襲ってくるのか?」
安男は何だか嬉しそうな顔をしていた。
「ヤクザなら、助っ人は要らないよ」
対して純の面差しはどんどん険しくなっていく。先に真作が店の外に出た。ゆっくりと後に続く純。安男までついて来てしまった。
駐車場の一番暗いところに、真っ赤な光が二つ、妖しい輝きを放っていた。闇に紛れて佇む、吸血鬼ラジルの双眼であった。
「これはまた随分な御挨拶じゃないか、ジュン」
「げっ!」
安男が叫んだ。
「外国語なのに、なんで言ってることの意味がわかるんだ?」
「テレパシーだ」
短剣を構えた真作が答えた。
「あんたにも受信する能力があるようだな」
「そりゃあ、俺は只者じゃないからな」
安男はますます楽しそうに笑った。
「シンサクを手懐けたのみならず、更にもう一人、手練(てだれ)の猛者(もさ)を護衛に付けるとはな」
闇の中、微かに人影が揺れた。
「『手練の猛者』とはまた、人を見る目があると言うべきか、買い被りが過ぎると言うべきか……」
安男は鼻先を指で擦った。彼はラジルが下僕にした女の意識を通して、既に安男の実力を認識していることを知らなかったのだ。彼が親の形見のペンダントを取り戻すべく、執拗に女吸血鬼を追い回した強者(つわもの)であることを。
「こっちへ来い、シンサク」
ラジルの赤い眼光に迫力が増した。真作を支配しようとする吸血鬼の魔力が少年を取り囲んでいく。
──今度は負けないぞ!
真作は歯を食い縛って耐えた。前回は絶望と無気力でまるで抵抗力がなかった。それに引き換え、今回は背筋にシャンと一本通っているものがある。しかも、手にした短剣からは溢れんばかりのパワーが湧き出して来るのだ。
「こいつに見覚えがあるか?」
真作は目映く煌めく短剣を示した。
「お前、昔こいつで相当やられたらしいな?」
「おのれ、ゲーリングめ! 余計な真似を!」
ラジルは一層毒々しい憎悪の光をその赤い目玉に燃え滾らせた。
「死してなお歯向かうか!」
「死んだ?」
純は思わず声を上げた。
「お前は父の先生であったゲーリングという人を恐れていたと聞く。そのゲーリング先生が亡くなった……?」
「確かに手強い相手だった。だが、どんな強敵であろうとも、人間である限り年を取る。老いて病に衰えたゲーリングの最期は、あまりにも呆気なかった。積年の恨みを晴らすにはあまりにも手応えがなさ過ぎたよ」
純は痛ましげに目を伏せた。ゲーリングという人物のことは、祖父から断片的に聞かされたに過ぎない。しかし、ひとかたならぬ恩人だという意識が深く心に刻まれていたのである。
「ジュンよ、お前の眼差しが、あの美しきユキエに生き写しだと教えてくれたのが、他ならぬゲーリングであった。ユキエが死んだと知って落胆した私に、ささやかながら希望の灯が点った。それ故にはるばる海を渡ってお前に会いに来たのだ。そして、ささやかな希望は、大いなる喜びに転じた! サガラ・ミツルとユキエの血を受け継いだお前は、二人を遥かに凌ぐ、私にとって至上の生命(イノチ)の源泉なのだ! お前は私のものだ、ジュン! 我が宝として常に我と共にあれ!」
「気色悪(ワリ)いこと抜かすな!」
真作は短剣を突き出しながら一喝した。
「ううっ、寄るな!」
ラジルはあたかも直射日光を避けでもするかのように両手で顔を庇いながら後ずさった。
「どういうことだ? 並みの人間にこんな力が出せるわけがない!」
「何喚いてるんだ、奴(やっこ)さん?」
安男はいささか退屈してきたような表情で呟いた。期待したほどの冒険はなかった、と言いたげである。
「もう金輪際オレたちに近づくんじゃねえぞ、この化け物野郎!」
真作は更に圧力を加えるように迫った。ラジルは言葉にならない呻き声を残して消え去った。
「行っちまったか?」
安男はすたすたと店内に戻った。
「吸血鬼だなんていっても、ちゃんとした魔除けがあれば、どってことないもんだな」
「そう。力あるものが持てば、魔除けの威力は何倍にもなるんだ」
純は頷いた。
「取り敢えず、今夜は凌げそうだな」
真作は短剣を鞘に納めてポケットにしまった。
「今夜は、か……」
うんざりしたように純は唇を尖らせた。
「そうだよな。簡単に諦めてくれるような上品なタマじゃないだろうな、どうせ」
「そういうことなら俺も手を貸すぜ」
安男は両手を組んで指をポキポキ鳴らした。
「なんせ、『手練の猛者』だからな」
「変わってるね、安っさんは」
純は苦笑した。
「さあな。ただ俺はサラリーマンとか、真っ当な社会人にはなれそうもねえ。それだけは確かだ」
午前八時、アルバイトの勤務時間が終了した。「送ってってやる」と言いながら、尾梶安男はさっさと一人で純たちが乗ってきた自転車を自分の大柄なSUV車のルーフキャリアに括り付けて、二人を座席に押し込んだ。夜明けと共に活力の鈍る純はろくに話を聞いていなかったし、真作にしても、寝坊助の兄貴を自転車の後ろに座らせるよりも、車に寝かせた方が楽だと考えたので、安男の申し出に何ら異存はなかった。
相樂邸に到着すると、ちょうど夜勤明けで帰ってきた沙耶と鉢合わせになった。
「あっれー、沙耶ちゃんじゃない!」
コンパクトカーから降りてきた彼女を見て、安男は素っ頓狂に叫んだ。
「あ……」
沙耶も相手が誰かわかって目を丸くした。
「え? 知り合い?」
ほとんど意識のない純を車から引きずり出しながら、真作も声を上げた。
「なあんだ、沙耶ちゃんの彼氏って、純のことだったのかあ。いやはや世の中意外と狭いもんだねえ」
「兄貴のバイト仲間なんだってさ、二年くらい前からの」
純に肩を貸しながら真作が説明する。
「へえー、ほんとに奇遇だね」
沙耶はいささかとろんとした顔で玄関の鍵を開錠した。
結局、居候がもう一人増えることとなった。一応は「住み込みのハウスキーパー」という肩書きであると、安男は主張する。彼は調理師免許を持っていて、見かけによらず料理の腕は上々であった。掃除洗濯も(沙耶は自分の分は自分でやったが)倦まずにせっせとこなし、金が欲しい時はアルバイトに出かけた。
一方、真作は無断欠席を続けていた高校に復帰した。純はフリーターと吸血鬼の二重生活、沙耶は病院の勤務に忙しい。
かくして、一癖も二癖もある四人の、奇妙な共同生活が始まったのである。
第二話 完