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「あんた……泣いてんの……?」

 沙耶が目を見張った。立原邸には防音工事を施されて高級な音響機器が完備された贅沢なオーディオルームがある。そして、今流れているのが、ピエール・ベルジュの「SNOW PICTURE」……。

「わ……わたしだって、音楽を聴いて泣くことくらいあるわよ……」

 気恥ずかしそうにサイキが急いで涙を押し拭った。彼女の来訪は、診察中に既に気付いていた。デムヌーヤや準デムヌーヤはそれぞれ自分の体内に蔵する特殊物質ルボロム同士の共鳴作用により、お互いの接近を感知することができるのだ。沙耶は外来患者が途切れたところで様子を見に来たのであった。

 ついでに付け加えておくと、以前サイキが亜衣に連れられて初めて立原邸を訪れた時、サイキは『ステルス』という能力を使って自らの気配を完全に殺していたが故に、直に姿を現すまで純や沙耶に気取られることはなかったのだ。さしもの魔女サイキも、その段階ではまだ堂々と顔出しできる度胸はなく、やや遠慮がちにこっそり近付いたといったところか。それ以降は気配を隠す必要は全くなくなったが。

「亜衣が学校から帰って来るまでの時間潰しのつもりが……やっぱり別れを前にして、さすがのわたしもちょっとおセンチになってしまったみたいね……」

「別れ? ドイツに帰るの?」

 休戦和睦同盟を結んではいるものの、依然として二人の態度は余所余所しく素っ気なかった。

「いえ……わたしはピエール・ド・ベルジュと同じ道筋を辿るつもりよ。……今日、この後……諌波探偵社に行って、“第一・第二の扉”の向こうへ連れて行って貰うことにしたの……」

「え……?」

 やはり会話は弾まない。

「あなたやエルケにはもう、わたしが教えられることは全て伝授してしまったし、男の子たちも随分逞しくなったし……わたしの役目はもう終わったんだと思う……」

「そう……あの……わたし……診察室に戻らなくちゃいけないから……それじゃあ……さよなら……」

 沙耶は壁に掛けられた時計を見上げてから部屋を出た。勤務中だ。複雑な想いも、取り敢えずは胸の奥にしまい込むしかなかった。

「さようなら……」

 サイキはそれを穏やかに見送った。

 

 

「なんで? なんでなの……?」

 亜衣の頬を涙が伝って落ちた。

「わたし……あなたのヒーリング・パワーで、体だけじゃなくて心まで癒されて、乾き切って凍り付いて麻痺していた感受性が、融かされて潤されて甦った……全てあなたのおかげよ、亜衣……」

 サイキも泣きながら少女の頬を撫でた。

「でもね……真っ当な感受性が回復すればするほど、今までに自分の犯してきた罪の重さで心が押し潰されそうで……とても辛いの……」

「だったらもっともっとヒーリング・パワーをあげる……! 心の苦しみさえ癒してしまえるくらいにたくさん……!」

 亜衣はサイキのもう一方の手を両手で自分の胸に引き寄せた。

「駄目……やっぱりけじめはちゃんと付けないと……日本で言う閻魔さま? の裁きを受けてきちんと罪の償いをしなくては……」

「だって! ずっと側にいてって言ったのはあなたの方じゃない、サイキ!」

 亜衣はサイキの首筋にしがみついた。

「ああ……あなたの天使のような腕に抱かれると決心が揺らいでしまいそう……でも……自分で決めたことだから……」

 サイキは身を切るような思いで少女の体を引き離した。

「それに……わたしがいるせいであなたと真ちゃんの関係がおかしくなってしまったら申し訳ないもの……もうわたしのことなんか忘れて、これからは真ちゃんと仲良く手を取り合って幸せに暮らしてね……」

「それで……それでいいの、サイキ、あなたは……?」

「いいのよ……それが一番いいのだと思う……わたしには何よりもあなたの幸せが一番大切……」

 サイキは亜衣の唇にそっと口づけした。

「ああ……愛してるわ、亜衣……わたしの罪の償いが済んで……いつか生まれ変われるとしたら……その時はまた巡り合いたいわね……」

「うう……サイキ……」

 涙が後から後から溢れ出し、亜衣はもう何も言えなくなってしまった。

「それじゃあ……ひとまずお別れよ、亜衣……」

 サイキ・ヴィトリヒは静かに去っていった。