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 深夜。ホテルのベッド。“半霊半物”というのは、肉体的物質的制約が文字通り半減する。疲れにくく、睡眠時間も食事の量も多くを必要とはしない。

 長沢亜衣にも自分の生活がある。そう度々サイキのことばかり構ってはいられない。ひとりぽつんと、サイキは普段着のままシーツの上に横たわって天井を眺めていた。

 激変してしまった己が人生。以前はデムヌーヤ、即ちヴァンパイアとしての性(さが)──生命エネルギーへの渇仰と飢餓の欲望に突き動かされるままに行動していれば何も考えなくてもよかった。だが、これからは何か楽しみや目的や生き甲斐のようなものを見つけていかなくてはならないだろう。“半霊半物”には老いも寿命もない。気が遠くなるほどの長い歳月が今後も続いていくのだから、身を入れてすることでもなければ、とてもじゃないが暇を持て余す。

「はあ……どうすればいいのかしら……?」

 退屈で思わず独り言が口を衝いて出る。その時、室内に異様な気配が湧き起こり、部屋いっぱいに充満していった。反射的に上体を起こし、尻で後ずさりして背中を壁につけた。

「あんたが魔女サイキ・ヴィトリヒかい?」

 闇の中に二つの頭部を持つ大きな蛇の姿が浮かび上がった。実体があるのか、霊体のみの存在なのかは定かではないが、身も竦むほどの圧倒的なエネルギー放射がサイキに只ならぬ圧力を与えた。

「何者っ?」

 サイキは目を見開いて双頭の大蛇を凝視した。

「あたしは『イニシエのオロチ』。名前くらいは聞いたことがあるだろ?」

 厳密に言うと、双頭の大蛇は左側の方が頭が大きい。そして、その左側が女の顔になった。

「『イニシエのオロチ』! 聞いたことがあるわ!」

 サイキの目が更に大きく見開かれ、頬や首筋に鳥肌が立った。

「魔女サイキが“半霊半物”になったと知れ渡って、闇の眷属共が色めき立ってもう大騒ぎさ」

「闇の眷属……あなたの仲間でしょ?」

「同類ではあるが、仲間ではないよ。あたしゃ誰ともツルんだりしないからね」

 女の顔をした大蛇は会話の合間にちろちろと赤い舌を口から覗かせる。

「むしろ敵さ。今回は紛れもなくね。奴等はあんたのボディと能力を媒体として、多くの闇の眷属の魂とパワーを結集し、このあたしに対抗しようとしているのさ」

「媒体? どういうこと?」

「霊体しか持たない者は憑依し、実体を持つ者は合体融合する。その中で一番力のある者が全体を支配するのさ」

「わたしが弱ければ他の魔族に体も心も能力も全て乗っ取られてしまうということ?」

「そうなるね。……いやなに。あいつ等があんまりにも魔女サイキ魔女サイキってはしゃぎ回って浮かれてるから、どんな奴かと興味があって見物しに来たってわけなんだが……なるほど、あんたはいい資質を持ってるようだ。あと千年も修行すれば、あたしの遊び相手くらいにはなれるかもしれないね。でもまあ、あたしなんかから見りゃあ、まだまだ小娘もいいとこさね」

「もしも……もしもよ、わたしがあなたの子分になったら、闇の眷属共はわたしのことを諦めるのかしら?」

「それはないね。子分だろうが家来だろうが、乗っ取って寝返らせてしまえば同じことだからねえ」

「そう……」

 サイキは唇を噛み締めた。

「でもまあ、どんなに大急ぎで合体や吸収を繰り返したところで、百年や二百年じゃあ、丸っきりあたしの足下にも及ばないだろうね。その時にあんたが“サイキのままでいられる”かどうか……次にもし会うことがあったとしたらその時にはあんたはどうなっているのか、ちょっと楽しみだね」

 女の顔をした大蛇が、その顔を見ている限りではそれほど凶悪にも強大にも感じられないようなクスクス笑いを浮かべた。

「ともかく、ひとまずこれで、あたしの気は済んだ。あとはあんたと闇の眷属たちで好きなように遊ぶがいいさ。そして、あたしに挑戦したければいつでもおいで。喜んで相手をしたげるから。……それじゃあ、あばよ」

 『イニシエのオロチ』の姿と共に、部屋中に満ち満ちていた恐ろしい妖気が瞬時に掻き消された。

 

 

 ふうっと吐き出した息が震えていた。サイキはもう一度体を投げ出して横たわった。頭の中を様々な思考が駆け巡っている。

 それにしても恐れ入った。サイキとの接触を目論む闇の眷属達よりもいの一番に『イニシエのオロチ』自身が彼女の許を訪れるとは、その神出鬼没振りには目を見張るものがある。

 まあ、魔族たちの意図はわからないでもない。暗黒世界の覇者とも言うべき『イニシエのオロチ』に匹敵し得る勢力を獲得したいと望む彼等がサイキの器に関心を示すなど、迷惑ではあるが、光栄でもある。

 問題はその『迷惑』という部分である。奴等はきっと、サイキの弱点を狙ってくるだろう。彼女にとって今、一番大切なのは長沢亜衣だ。亜衣を殺すなり人質にするなりすれば、サイキはいとも容易く暗黒波動の坩堝に転落して奴等の走狗に成り下ることだろう。そのくらいの思惑はすぐさま見抜くことができる。何故ならつい先日までの魔女サイキの遣り口だったからだ。事実、中崎沙耶の母・コンスタンツェ(コニー)の命と能力を奪取する前に、父・貴士を殺している。お腹の中に沙耶がいたせいだろう、母親としての自覚と責任感に支えられてコニーは正気を失うことこそなかったが、効果的に精神的な痛手を与えることに成功したのは確かだ。同じことを自分がされた場合、果たして自分は己を見失わずにいられるだろうか……サイキは心安からぬ思いに苛まれた。何よりも、何としても、亜衣だけは失いたくなかった、それだけだ。

 いや、向こうから寄って来てくれるというのだ。仕掛けて来てくれるのだ。何度憑依や合体を試みて急襲されようとも、こちらが主導権や支配権を失うことなく掌握し続ければいいだけの話だ。そうすれば、魔族が襲い掛かってくる度に取り込んでますます強くなれる。

 “半霊半物”となり、亜衣という恋人も得て、満ち足りた境遇に到達してしまったサイキにはもはやかつてのような力やエネルギーに対する激しい渇望はない。だが、動機自体は別物に変化したものの、再び彼女は強い意志で己の強化を願うようになった。

 全ては亜衣を守るためだ。自分が強くなれば愛しい恋人を確実に守護することが可能になるだろう。

──わたしは亜衣を守るためならどんなことでも厭わない……!