31

 

 診察開始時間を過ぎても沙耶は姿を見せなかった。

「こんなことは初めてだ……」

 大学卒業後の二年間の研修医時代を経て今年から中崎医院に勤務するようになった沙耶は、自宅と繋がった医院には通勤の必要もなく、無遅刻無欠勤など当たり前の話だった。祖父で院長の清和医師は不安そうに時計を見上げた。

「まさか、沙耶先生、わたしの身代わりに……」

 看護師の制服を着用した渚が声を震わせた。

「まさか……」

 清和も変な冷や汗が流れ落ちるのを感じた。

「ストーカーが最初は渚ちゃんを狙っていて、途中からもっとパワーの強い沙耶にターゲットを変更したというのは充分考えられることですね」

 純の眉間には悲痛な皺が寄っていた。

「さもなきゃ、本当はハナっからアネキが狙いだったのを、カムフラージュのために渚ちゃんをストーキングしていたか……だって、アネキはサイキとかいう魔女に狙われてるんだろ?」

 真作も唇を噛み締めている。

「とにかく、おじいちゃん、おばあちゃんと渚ちゃんは通常通り医院の仕事をして下さい。安っさんはここの警備。オレと真作は諌波探偵社に行って来る」

 そう言いながら純はもう歩き出していた。真作がそれに続く。

 

 

 

「どうだ、真作? 沙耶の気配、感じるか?」

 軽自動車を運転しながら純は尋ねた。真作はちょうど純の携帯を借りて学校へ欠席の連絡を入れ終えたところだった。

「ついさっきだ。急にアネキの存在を感じなくなった。ふっと掻き消されるように……」

 真作は手に持ったままの携帯を握り締めた。

「お前もか……まさか、こんなことが起こるとは……」

 信号待ちをする純は焦燥のあまり苛々とハンドルを指先で叩いた。

「くそっ……心配だ。サイキって魔女はアネキより強いんだろ? ……それとも、別の誰かか……いずれにせよ、アネキを拉致できるほどの力のある奴なんだ……今頃アネキ、どんな目に遭ってるか……」

 真作も苦悩に顔を歪めた。

 

 

 

 諌波探偵社は中崎内科医院から車で四十五分ほどのところにある。

「久し振りだね、純くん」

 探偵社の面々は純の父・充の代からの知り合いだ。純は挨拶もそこそこに用件を告げた。

「……ビンゴだ。ちょうど今、その件の関係者と思しき人物が依頼人としてここに来てる」

 正兼真悟探偵が言った。

「サッチー、彼女を連れて来なさい」

 その声を聞きつけて、山下佐知恵がセーラー服姿の少女と一緒に別室からやって来た。

「この子は長沢亜衣(ながさわ・あい)ちゃん」

 佐知恵が紹介する。

「お願いします。兄を止めて下さい……!」

 少女は思い詰めた表情で皆に訴えた。

「兄の士紀は、血も涙もない悪人なんです。人殺しさえ平気なんです」

「彼の目的は?」

 鈴木十七社長が尋ねた。

「取り敢えずはわたしの代わりを探しているんじゃないかと……」

 亜衣は目を伏せた。

「代わりとは?」

「わたしの特殊能力は『ブースター』っていって、他の人の能力をパワーアップできるんです。肩とかどこか体に触ってないといけないんですけど……」

「なるほど。渚ちゃんにも似たような力がある。彼女も我々の能力を増幅することができるんだ」

 純が納得したように頷いた。

「じゃあ、渚ちゃんがターゲットだったのは間違いないのか。それがどういう流れでアネキを浚っていったのか……」

 真作も思案顔で呟く。

「わたし、どうしても犯罪に加担するのが嫌で、兄の許から逃げ出したんですけど……そのせいで誰かが犠牲になってしまっただなんて……」

 亜衣はぽろぽろと涙を零した。

「とにかく、特殊能力者が相手だ。みんなで力を合わせて取り掛かろう」

 鈴木社長の号令の下、全員が動き出した。

 

 

 その夜、瑞南渚は立原邸の尾梶安男の部屋に泊まった。心痛で食欲もなく、窶れた表情の彼女は入浴後すぐに横になった。安男は明かりを消してベッドに潜り込み、そっと彼女に触れた。

「ごめんさい……今はそんな気分じゃ……」

「腕に抱くだけでも駄目?」

「あ……それは是非……」

 横向きに背を丸めている渚の後ろから安男が両腕を回すと、渚は彼の手に自分の手を重ねた。

「沙耶先生が無事に戻って来たら……わたしのこと、お嫁さんにしてね……」

「うん……俺、いいダンナさんになれるよう努力すると誓うよ……」

 二人はそのまま静かに眠った。

 

 

 

   32

 長沢士紀の特殊能力は「邪魔波(じゃまは=Jammer Wave)」という。どんな強力な能力者が相手であろうとも、その力の発動を遮ってしまう恐るべき能力だ。沙耶の持つヴィトリヒの魔法も全て封殺されてしまっていた。特殊能力どころか日常の動作すら、士紀が意図すれば抑え込まれてしまうため、抵抗も逃亡も不可能であった。

「お前の特異能力は『コピー・アンド・ペースト』というのか」

 士紀は両手の指先で沙耶の顳顬(こめかみ)を執拗に摩っている。

「何とかして、その能力、取り込むことはできないだろうか?」

 何やら祈りでも捧げるかのように、一心不乱に念を凝らしている。

「脳内のデータを写し取り、それを模倣すれば同じ動作が再現できるだろうか? 生き物が行うことには全て生命力が介在するのだから、その生命力を吸収できる俺が、生命現象の全てを吸収できない筈があるまい……!」

 士紀は何度か固く勃起した下腹部を押し付けては来たものの行為に及ぶことはなく、肉体的接触は浅く留めて霊的な侵入に専念した。だが、それは紛れもなくレイプだった。沙耶の魂を貫き切り刻み、抉り取り、踏み躙った。正真正銘の蹂躙であり、陵辱であり、彼女の心の貴重なもの、大切な想いの全てをゴミ屑のように乱暴に千切り取り、粗雑にしゃぶり尽くして奪い去ろうと襲い続けた。一晩中侵食され続けた沙耶は、あわや心が折れる寸前まで追い込まれていた。そんな地獄のような夜が永遠に終わらないのではないかと挫けそうになったその瞬間……

 部屋のドアが粉砕されて立原純が突入してきた。

──純……! あなた……!

 明け方の光と共に飛び込んできた夫の姿に、沙耶は泣きながら両手を差し伸べた。

「沙耶! 大丈夫か!」

 純の声が部屋中に響き渡った。

「そ、そんな、馬鹿な!」

 信じられないという表情で長沢士紀はその場に凝固してしまった。純に続いて真作と安男も乱入してきた。

──嘘だろ! こんな物凄いパワーの奴が三人も現れるなんて! こんなの敵うわけがない……。

 どうやったのか、部屋に施した封印すらも難無く突破してのけた連中だ。さしもの長沢士紀も観念するしかなかった。安男と真作に小突き回されながら両手を頭の上に載せ、すごすごと連行されていく。

「こ、こんなに冷え切って……」

 純も涙ぐみながら、必死で妻の体を摩って温め、エネルギーを注入してやる。

「ああ……」

 もう言葉にならない。沙耶はただひたすら夫に縋り付いた。やがて震えも収まっていく。

「ひどい目に遭ったな……帰ったらゆっくり風呂に浸かってあったまろう……」

 沙耶の靴を持って、彼女の肩を抱き締めながらゆっくり歩いて外へ出る。

 一方、長沢士紀は最後の最後まで往生際が悪かった。家から出て状況を窺うと、士紀のセダン以外に高級乗用車とワゴン車が止まっていて、玄関先に黒服の男(正兼真悟)が一人、ワゴン車の横には妹の長沢亜衣と瑞南渚が並んで立っている。

──ええい! ダメ元!

 士紀は『邪魔波(じゃまは=Jammer Wave)』を全開にして放射しながら駆け出し、渚に襲い掛かった。その場に居合わせた顔ぶれをざっと見渡したところ、最も力が弱そうなのが渚であり、付け入るならそこしかなかった。

 安男も真作も正兼探偵も警戒はしていたにもかかわらず、士紀の『邪魔波』の妨害波動により一瞬“虚”に陥らされた。その隙に士紀は渚の心臓部に最大出力の『邪魔波』をぶち込んだ。

「待てっ!」

 後手に回った男たちが詰め寄ったが、士紀は渚を突き飛ばして高級乗用車に乗り込んだ。

「渚っ!」

 安男は駆け寄って石畳に倒れ込んだ渚を抱き起こした。

「安男……さ……ん……」

 渚は弱々しく微笑みを浮かべ、がっくりと息絶えた。

「渚ちゃんっ!」

 沙耶は自分の痛手も省みずに渚を診察した。

「そんな……心臓が……止まってる……」

 絶句して身を震わせる沙耶。

「う、うわああああっ! 渚あああああっ!」

 安男が絶叫した。猛烈な勢いで走り出した彼の後方に眼鏡が落ちた。士紀が奪った正兼探偵の乗用車は既に数十メートル先まで逃走していたが、安男は常人離れしたスピードであっと言う間にその距離を縮めて追い付き、無造作に運転席のドアを引き千切ると、士紀を引き摺り出して殴りつけた。地べたに這い蹲った士紀はそのまま動かなくなった。殴った安男の拳から血が噴き出したが、瞬時に治癒していた。尾梶安男の特殊能力は、激怒した時に不死身の怪力男に変貌してしまうというものだった。普段は強度の近視である彼が眼鏡なしで疾走し、自動車を破壊し、人を素手で撲殺する。

「ま、待った! 安っさん!」

 純と真作が慌てて安男を取り押さえた。二人掛かりでも振り飛ばされそうだった。しかし、悲しいかな、人間というのはどんなに激怒しても完全に理性を失うことはない。逆上したブチ切れたといいながら、それでも頭の片隅には冷静な自分というものが依然として存在している、それが人間の性(さが)だ。感情を刺激すれば火に油を注ぐだけだが、理性に訴えかければ案外自分でちゃんとブレーキをかけることができたりする。

「落ち着け、安っさん!」

 純が背後から安男を羽交い絞めにしていた。

「安っさんほどの男が、こんな奴相手にフルパワー出す必要なんかねえって!」

 真作は真正面から安男の両腕を摑んでいる。

「そうとも! こんな奴には殺す値打ちもないっ!」

 純と真作は必死でしがみ付いていた。

「……わかったよ……わかったからもう放せよ……」

 不意に低い声で安男が呟いた。

「それより……俺の眼鏡……どこだ……?」

 怒気が去った彼はいつも通りの視力に戻っていた。

 

 

 

 長沢士紀はその後昏睡状態が続き、二度と意識が戻ることなく病院のベッドに寝たきりの余生を過ごすこととなった。自動車すら粉砕する安男の怪力パンチを食らって死ななかったのが、果たして幸運であったかどうかはわからないが。

 士紀の『邪魔波』は瑞南渚の心機能を一瞬にして停止させてしまった。その辺りの所謂超常現象的な部分については、正兼探偵がうまく警察と辻褄を合わせることで合意した。諌波探偵社が絡む事件にはしばしばオカルトじみた事案が含まれることは先刻承知であり、厄介事を嫌う警察上層部はごく一般的な事件や事故として無難な調書を作成した上で、余計な波風を立てずに送検して済ませたがるのだ。

 

 

 

 痛ましい犠牲を出してしまった今回の事件。しかし、沙耶は一つの教訓を得た。自分一人では全く抵抗もできなかった長沢士紀に対して、純や安男、真作、諌波探偵社のスタッフらが協力した結果、速やかにアジトを特定して長沢を捕縛することに成功したのだ。兎にも角にも、力ある仲間を一人でも多く集めることで、魔女サイキ・ヴィトリヒや『スペインの魔道士』アルマンド・アルテリオ・ガルシアのような恐ろしい強敵にも対抗できる見込みが立ったわけである。

 そして、中崎沙耶は己の特異能力『コピー・アンド・ペースト』により、長沢士紀の『邪魔波(じゃまは=Jammer Wave)』を獲得したのであった。パソコンのクリックやタッチパネルのタップ等によるデータのコピーと同様に、霊的な接触によって初めて能力のコピーが可能となる。士紀が健在の時には封じられていた『コピー・アンド・ペースト』も、彼が昏睡状態に陥ったことにより正常な起動を回復したのだ。士紀が救急車で搬送される直前、彼女は士紀の額に指を押し当て、人知れず取り込みを完了させたのである。

 今回、得た物は決して小さくはなかったが、そんなものでは到底償い切れないほどの深い深い傷跡を沙耶の内に残すことになってしまった。そして、何よりも瑞南渚の冥福を祈らずにはいられなかった。