第三部 我らの夜明け

 

 

 

   26

 中崎沙耶本人も、祖父の清和も、将来は沙耶が「中崎内科医院」を継ぐと強く心に決めていた。小学生の頃から学業以外にも医学の勉強を熱心に続けてきた。その甲斐あって沙耶は常に学年上位の成績を維持していた。立原充は純と沙耶に物心つく前から英語とドイツ語を身に付けさせていたので、尚更他の同世代に比較して有利であったことも確かだ。そればかりか、沙耶と純は自主的にヴィトリヒの魔法である外国語習得術を用いてフランス語、スペイン語、中国語まで学んでいた。それは大変な負担であったのではと思いきや、魔法によるチートスキルのおかげでさしたる苦労もなかったのだ。

 

 

 一方、そんな沙耶の姿──常に未来の自分というものを見据えている──をいつも見ていた純が、振り返って自分はどうなのだろうと思案するようになったのは、高校に進学した頃からだった。彼女のように具体的な目標も志もない自分ではあるが、それでも何か社会的に意義のある仕事に就くことができるだろうか……。

 実際問題として、経済的には働く必要は全くないのであった。父・充が一生遊んで暮らせるほどの財産を残してくれたからだ。

「専業主夫でもいいわよ」

 沙耶はにこにこして言う。

「仕事から帰ってきた沙耶に、『お風呂が先? ご飯が先?』とか聞くのかい? ……う~ん微妙だな……考えさせてもらっていいかな……」

 照れ笑いを浮かべる純。自他共に認める「許婚」同士の二人は、傍目から見ても微笑ましいほどに仲が良かった。お互いにとってかけがえのないパートナーであり、いつも側にいて依存し合い、支え合い、喜びも悲しみも分かち合って生きてきた。それはきっとこれからも……。

 こうして立原純と中崎沙耶は一歩ずつ着実に大人への階段を昇っていったのである。

 

 

   27

 立原家には、一風変わった同居人がいた。尾梶安男(おかじ・やすお)、純より二歳年上、身長185センチ、体重65キロ、長身痩せ型。強度の近視、裸眼視力0.1未満。ボサボサ頭で、年がら年中半纏を羽織っている。

 

 安男とは純が高校三年生の時にバイト先で知り合った。「何でも屋福善商店」という会社から派遣されて引越し作業の手伝いに行った時のことである。

 一瞥してお互いに“特殊能力者”であることを感じ取った二人はすぐに意気投合し、仕事が終わった後、居酒屋へ繰り出していろいろなことを話しているうちに──安男はその時既に二十歳だったが、彼の飲酒に純も付き合ったかどうかは御想像にお任せするとしよう──すっかり夜も更けてしまい、安男は自宅へ帰るのを面倒臭がって立原家に一泊したのであった。

 時刻は日曜の昼近くになっていた。沙耶が勝手に玄関の鍵を開けて入って来た。因みに立原家と中崎家は一軒挟んだすぐ隣である。

「純~、いるの? 寝てるの?」

「いやー、よく寝た」

 純が昨日の外出着のまま大欠伸をしながら自室から出て来た。

「いやあ~、本当によく寝たあ!」

 別室から半纏姿の安男が両手をいっぱいに伸ばしながら出て来た。

「あ……」

 沙耶は戸惑って長身の若者を見つめた。

「わっ!」

 安男は思わず眼鏡を掛け直す。

「いーなあ、純! こんなスゲー美人のカノジョがいるのかよ!」

「ああ……彼女は中崎沙耶さん。所謂フィアンセってやつ」

 純は紹介する。

「こちらは尾梶安男くん。バイト先の先輩」

「君もアレか……」

 安男は誰に対しても気安く話しかけることのできる男だった。

「そうですね……同類って言うか……」

 純の時と同様に、沙耶と安男もお互いの“特殊性”を察知した。

「ところでなあ、純」

 安男は純を見た。

「ん?」

「オレ、ここに住まわせてもらってもいいかな?」

「オレ、変な趣味ないよ?」

 純と沙耶が同時に仰け反った。

「オレだってねーよ、バカヤロウ!」

 安男は苦笑した。

「いや、そうじゃなくてさ……ここってすごく居心地がいいんだよ。もともとイヤシロチである上に、何か魔除けみたいなのしてるだろ? 悪霊みたいなのを寄せ付けないから実に清々しいんだよな」

「イヤシロチって、たしか『カタカムナのサトリ』だっけ?」

 純と沙耶は顔を見合わせた。

「そう、端折って言えば、植物の生育や動物の心身を活性化させる場所、そして、女性がより美しく見える場所だ」

 安男はそう言って沙耶に両手を差し伸べた。透かさず沙耶は純の後ろに避難した。

「オレ昔から霊的な波動に敏感でさ、磁場や霊域の悪い場所に行くと頭痛がしてくるんだ」

 安男はすぐに真顔に戻って話を続けた。

「でもここは、本当に素晴らしいところだ。昨夜一晩泊めてもらって、もう、生まれてこの方こんなにぐっすり眠れたの初めてかもしれないっちゅうくらい気持ちよく眠れたんだよ。ここの素晴らしさを知ってしまってはもう、他では暮らせない! ……なあ純、頼むよ。オレをここに匿ってもらえないだろうか」

「匿ってだなんて、犯罪者じゃあるまいし……」

 純は沙耶の顔色を窺った。

「あたしは……別に構わないけど……二人が“仲良し”になったりしなければ……」

「なるわけないじゃん!」

「ぜってー有り得ねー!」

 純と安男は激しく首を振った。

「まあ部屋はいくらでもあることだし……。“力”のある仲間が増えるのはいいことだわ。敵に対抗し得るだけのパワーと頭数が、正直喉から手が出るほど欲しいのだから……」

 沙耶はやや表情を翳らせて目を伏せた。

「敵……か……」

 純も唇を噛み締めた。

 

 

 

 その後、尾梶安男は家族の一員として速やかに溶け込んでいった。全く人見知りをしない安男は沙耶の祖父母・中崎夫妻とも瞬く間に打ち解け、食事も中崎家で彼ら(無論、純も含む)と一緒に食べるようになった。調理師専門学校を卒業している安男はやがて、「中崎内科医院」の仕事で忙しい和歌子夫人に代わって食事の支度をも任されるようになった。

 

 

 

 安男の職業は会社員である。「何でも屋福善商店」の登録社員だ。社長は福田善夫、だから「福善商店」なのだが、その福田社長に安男は非常に気に入られており、行く行くは後継者にするつもりだと打ち明けられていた。零細企業なので細々と遣り繰りして食い繋いでいるという感は否めないが、それでも次期社長は次期社長だ。そして、安男は純に高校卒業後は「福善商店」の仕事を手伝ってくれることを切望していた。純はその依頼を承諾することで、自分の将来についての道筋を取り敢えず一つ付けることができたわけである。