21

 

 コニーは悪夢に魘されていた。あの恐ろしき魔女サイキ・ヴィトリヒが迫り来る。鋭い鉤爪の生えた両手が伸びてきて、夫・中崎貴士の胸に食い込んだ。

「きゃあああああっ!」

 悲鳴を上げながらコニーは夢から逃げ出した。しかし、目覚めた後には、更に残酷な現実が待ち受けていた。貴士の体は冷たくなって、もはや息をしていなかった。愛する夫・中崎貴士は、魔女サイキによって呪殺されたのだ。

「いやああああっ! タカシ! タカシ! タカシっ!」

 半狂乱で泣き叫びながら夫の亡骸に縋り付いた彼女は、悲嘆のあまりにそのまま気を失った。

 

 

 

 その後のことを、コニーはあまりよく覚えていない。葬儀が終わり、火葬後の遺骨を墓に収め……中崎家に戻って来た時には、もう、貴士はどこにもいない……。

「うっ……くっ……!」

 嗚咽が込み上げて抑えられない。コニーはいつまでも声を上げて泣いた。

 

 

 だが、どんなに悲しくとも、どんなに辛くとも、これから先も生きていかねばならない。お腹の子のためにも。コニーが辛うじて正気を保っていられるのは、子供のために頑張らねばと気を張っていたからに他ならない。

 取り乱してはならない、感情を荒れ狂わせて己を見失ってはならない。挫けそうになる度に自分にそう言い聞かせる。怒りや憎しみ、恐怖や悲嘆と言った、荒んで汚れた毒のようなBGMを流し続けたら、絶対的に胎教によくない。『悪しき因縁の貯蓄』を積み立ててはならない。子供には喜びや幸福という財産を残してあげなくては……。

 そんな理性の殊勝な言い聞かせも、自暴自棄に耳を塞いで投げ打ってしまいたくなる。ともすれば無気力になって、投げ遣りになりがちな彼女の側には、しかし、中崎の両親がいた。親友の立原雪絵がいた。コニーを暖かい温もりで抱き締め、一緒に泣いてくれる。彼らの存在が唯一の心の支えだった。

 

 

 月日が流れ、コニーと雪絵は数日違いで無事に出産した。コニーは女の子──中崎の両親に「沙耶(さや)」と命名してもらい、立原夫妻は息子を「純(じゅん)」と名付けた。

 

 

 

   22

 

 近所の若い主婦が雪絵を訪ねて来た。知り合いから紙おむつを大量に貰ったが置く場所に困るので少し御裾分けしたいとの申し出だ。同時期に妊娠していた誼だし、断る理由もなかったので、雪絵はその主婦と一緒に立原邸を出た。

 

 

 

 まずい、と思った時には手遅れだった。目の前が真っ暗になって何もわからなくなってしまった。

 

 

 

 意識を取り戻した雪絵は、自分が見知らぬ部屋のベッドに寝かされていることに気付いた。全身が痺れて自由な身動きができない。

 

 

 

「やあ、ユキエ。約束通り君を貰いに来たよ」

 アルマンド・アルテリオ・ガルシアがニヤニヤしながら、横たわる彼女を見下ろした。この時にはもう完全な日本語になっていた。

「約束なんかしてないわよ」

 雪絵はそそけ立った様子で吐き捨てるように言った。

「近所の奥さんはどうしたのよ? わたしを誘き出すために操ったの?」

「その通り。前回の訪問以来、魔除けが強化された立原邸には、さしもの俺様も入り込むことはできないのでな。催眠術で喋る台詞を覚え込ませた普通の人間にお使いをさせたというわけさ。とにかく敷地の外に連れ出しさえすればよかったのだからね」

「生憎わたしはあなたなんかと仲良くするつもりはこれっぽっちもないんだけど」

 雪絵は冷ややかに相手を見返した。

「まあ、そう言うなよ」

 アルマンドは薄気味悪く笑っている。

「天にも昇る心地良さを堪能させてやる」

 舌なめずりしながら、アルマンドは雪絵の衣服を剥ぎ取っていく。全くもって気色の悪い男だ。

──わたしは吸血鬼だ。元より清純派なんぞではない。何発かヤラせておけばすぐに飽きて離れていくことだろう。後は家に帰るだけだ。どうということはない……。

 雪絵は固く目を瞑って顔を背けた。

──いやだ! やっぱりいやだ!

 脳裏いっぱいに充と純の顔が浮かんで、抑えきれずに涙が溢れ出した。

──戦うわ! 夫と息子のために、わたしは戦う!

 金縛りに遭っていると言っても、1ミリたりとも身体が動かせないわけではない。

──ほうら……こいつは油断している。わたしを手中に収めたと確信して安心しきっている。そうだ、もっと覆い被さってくるがいい。もっと顔を近づけろ!

 カッと大きく開かれた雪絵の口から鋭い牙が伸びていた。一瞬の隙を捉えてその牙をアルマンドの無防備な首筋に突き入れる。

「がっ……?」

 アルマンドはたじろいだが、もうこちらのものだ。噛み付いている間は吸血鬼の魔力が獲物を縛り付ける。デムヌーヤと雖も例外ではない。ごくごくごくごく……と、何十年ぶりかで息もつかせぬ勢いで鮮血を飲み干していく。通常の一人分以上の分量を吸った筈だが、デムヌーヤの治癒力が速やかに血液を作り出すせいか、無尽蔵と言えるほどの血液を吸っても吸っても吸い切れない。久しく忘れていた全身を駆け巡る生気の迸りがめくるめくような喜悦を齎した。

 雪絵はぐったりしているアルマンドの胸を思い切り足蹴にした。猛烈なスピードで壁に叩きつけられたアルマンドは、人形のように不自然な体勢のままごろりと床に崩れ落ちた。

──奴はほどなく回復する。長居は無用だわ。

 彼女は蝙蝠に変身して飛翔した。背中から羽が生えるわけではない。人の形を失い無数の蝙蝠と化して散らばりながら集まりながら群体のように固まって移動していく。煌々と月の輝く夜空を、妖しい羽音を微かに響かせながら、蝙蝠の群れは立原邸の上空にやって来た。

バチッ!

 強烈な衝撃が発生し、敷地内への侵入を阻んだ。蝙蝠たちはもう一度突入を敢行する。結果は同じだった。きな臭い火花や煙と共に、立原邸の前の道路にバサバサと落下する蝙蝠たち。

「うわははははっ!」

 追って来たアルマンドがいかにも可笑しそうに高笑いを放つ。

「対吸血鬼の魔除けが仇となったな! 皮肉にして滑稽! これが笑わずにいられようか!」

 歩み寄ったアルマンドががっと手を突き出すと、半ば人の姿に戻っていた雪絵は行動の自由を奪われていた。凄まじいまでの妖気を漂わせるアルマンド。雪絵の吸血行為によって蒙ったダメージを回復させるために、ここまで来る間にどれほどの人々の生命エネルギーを簒奪したのであろうか。

「あんなまぐれは一度っきりだ。もう二度と俺は油断しないぞ」

 雪絵の身体を軽々と肩に担ぎ上げ、悠揚迫らぬ足取りで歩いていく。マンションの一室──先ほどの部屋だ──に戻り、ベッドに雪絵を放り投げた。再び彼女の上に覆い被さり、今度こそ思いを遂げんとするが、雪絵は全裸の体を晒すことを恥じて蝙蝠変身を完全には解除していなかった。乳房も濡れた秘部がある筈の女の局所も、黒い羽が幾つも重なり合って蠢いている。

「くそっ! どこまで逆らう気だ!」

 アルマンドは歯軋りした。

「もう一度言うぞ。俺の女になれ!」

「何度でも答えは同じよ! 絶対にお断りっ!」

 強い意志の漲る雪絵の瞳が赤々と輝いている。

「……わかった……もういい……勝手にしろ……」

 不機嫌に低い声で呟いたアルマンドは、雪絵の蝙蝠が蠢く胴体の、鳩尾の辺りを掌で押さえ付けた。

「ぐえっ……!」

 雪絵の口からルボロムが飛び出してきた。

「ふん……普通のデムヌーヤなら、全てのルボロムを奪取されたら即座に干乾びて死ぬのだが、お前には地球古来の吸血鬼の不死身性が残っているのだな。しかも、さっき俺の生き血を大量に吸収したばかりだしな」

 アルマンドはますます冷酷で残忍な顔付きで笑った。

「そうかそうか……仕方がないなあ……ならばお前を亭主の所へ帰してやる。明日、お天道様が真上にある時にな!」

 

 

 

   23

 

 別れの時を、否応なく突き付けられた。翌日は快晴。降り注ぐ陽光の下、アルマンドはSUV車で立原邸のブロック塀をぶち破り敷地内に突入した。黒いビニール袋を被せられて助手席に座っていた雪絵を運転席側から引き摺り出し、袋を剥ぎ取って彼女を突き飛ばす。

「雪絵!」

 家の外へ飛び出してきた充が駆け寄ろうとする。

「充さんっ!」

 眩しい日の光を浴びてしゅーしゅーと煙を発して焼けていく雪絵。泣きながら必死で手を伸ばし夫に縋り付こうとよろめきながら走った。

 彼女がルボロムを喪失していることは共鳴反応がないからすぐにわかる。だが、このような急場にいきなり己の体内のルボロムを分離して与えるなど不可能だ。間に合わない……せめて、最期の抱擁だけでも……焦がれるような想いも虚しく、雪絵の肉体は灰となって消滅した。後には彼女の結婚指輪だけが残され、緑の芝生の上に落ちた後、ひっそりと静かに日の光を反射していた。

 アルマンドは既に車で立ち去った後だ。塀が砕かれた大音響に驚いた近隣住民が掛け付けて集まって来るのも目に入らぬまま充は、灰の欠片一つ残さず愛する妻が消え失せてしまった庭で、絶望と悲嘆のあまり、もはや立ってもいられず、四つん這いに這い蹲って号泣した。

 

 

 信号待ちをするSUV車の運転席、アルマンド・アルテリオ・ガルシアは左目の周りに違和感を覚えた。痛みと痒みが重苦しくて不愉快だった。ルームミラーを覗くと、その辺りがやや変色している。不死身の治癒再生能力を持つデムヌーヤには考えられない症状だ。まさか、再生能力が衰え始めているのだろうか? ついに寿命が尽きようとしているのだろうか?

 心ならずも立原雪絵を殺してしまった直後の、ただでさえ不安定な精神状態の中、己の先行きに暗雲が立ち込めてきたように感じられてならなかった。