17

 

 医大生の貴士が学校へ行っている間、コニーは立原邸を訪れて雪絵と共に過ごすことが多かった。妻同士すっかり仲良しになり、今や無二の親友という間柄だった。

「特異能力というわけではないが、雪絵の特性は『ラッキーガール』だ」

 充は笑って説明した。


 

「吸血鬼って、どっちかと言うと陰気な感じだろう? にもかかわらず彼女は周囲の人々を何だか幸せな気分にさせるようなそんな才能があるんだ」

「それ、すごいわかる。ユキエの顔を見ているだけで儲けたような気がしちゃうもの」

 コニーが強く同意する。

「そのお礼と言ってはなんだけど、これを貸してあげるわ」

 彼女は呪い(まじない)の道具を手提げ袋から取り出した。

「『Fortpflanzung(フォートプフランツング)』と言ってね、子宝に恵まれるようになる呪具よ。これ、タカシとわたしが使ってるんだけど、もう一つ予備があるから、こっちはあなたとミツルで使ってちょうだい」

「いいの?」

 雪絵は色白の頬を少し赤らめた。

「だって、子供欲しいでしょ?」

「そりゃあ勿論……。充さんと結婚してもう三十年以上になるけど、全然子供ができなくて……魔法の力にでも頼りたいわ、ほんと……」

「絶対大丈夫よ。呪文の掛け方も教えてあげるから」

 

 

 

 そして数ヵ月後、コニーと雪絵はほぼ同時期に妊娠した。

「妊娠まで仲良く一緒か」

 貴士と充は嬉しそうに笑った。

 

 

 

   18

 

 デムヌーヤが近くに来れば必ずわかる。気配を感じたコニーが貴士と一緒に立原邸へ急ぐと、門の前に一人の男が立っていた。

「ピエール・ド・ベルジュ!」

 彼女は叫んだ。

「“ド”は要らない。ただのピエール・ベルジュでいい。今更貴族も伯爵もないだろう」

 ピエールは痩せこけて髪も真っ白だった。

「……老化が始まっている……?」

 息を呑むようにしてコニーは相手を見つめた。

「見た目は六十代くらい、ってところか……もう先は長くない」

 ピエールは静かに微笑んだ。

「君は確かまだ800歳を越えてはいなかったはずだが、ピエール……?」

 通用口を開けて出て来た充がフランス語で言った。

「老け込むには早いんじゃないか?」

「久し振りだね、ミシェル・タシャラ」

 ピエールは充の名をフランス式に発音した。ヨーロッパ生まれの充はキリスト教由来の「ミカエル」に因んで名付けられたが、当然それは各国で発音も綴りも異なる。英語圏ではMichael(マイケル)、フランスではMichel(ミシェル)、ドイツではMichael(ミヒャエル)、イタリア……Michele(ミケーレ)、スペイン……Miguel(ミゲル)、ロシア……Mikhail(ミハイル)──といった具合だ。ついでに言うと、立原充という日本名は「ミシェル・タシャラ」を捩ったものだ。

「どうやら不摂生が祟ったようでね」

 ピエールはコニーにもわかるようにドイツ語に切り換えた。

「寿命はやはりデムヌーヤと雖も個人個人でそれぞれ違うようだ」

 

 

 

「飲み物は何がいい?」

 応接間に入った充が尋ねる。

「アブサンとか……」

 気だるげにソファに身を沈めたピエールが呟いた。

「昼間から……なるほど“不摂生”だな」

 充は苦笑した。

「しかし我が家には、あんまりアルコール度数の高い酒は置いてないんだ。ワインくらいにしておけよ」

「ならサケくれサケ。せっかく日本に来たんだから。なるたけ辛口のやつをね」

「君らは?」

 充は中崎夫妻を見た。

「わたしおチャ、おチャ!」

 コニーが陽気に答えた。

「オレも」

 と、貴士。

 キッチンへ行って妻にあれこれ頼んだ後で、戻って来た充は背筋を伸ばして座った。

「よくここがわかったな」

「サイキ・ヴィトリヒが教えてくれた」

 ピエールの返答に、コニーと貴士ははっとなって互いの顔を見合わせた。

「君達の居場所を知っているのに何故襲ってこないのか? 理由はわかっているだろう?」

「うう……子供ができるのを待ってるんだ。産まれた後でコニーを“喰らう”つもりで……」

 貴士は唇を噛み締めた。コニーは彼の手をぎゅっと握り締めた。

「で、ピエール、君自身は何の用で来たのかね?」

 充が別の質問をした。

「私は今、デイビッド・“レフティ”・コルティのファイナル・ワールド・ツアーにメンバーとして参加している。担当はピアノとアコースティックギターだ」

「すげえ!」

 貴士が喚声を上げた。サイキのことは今からあれこれ悩んでも仕方がないので、殊更に気を逸らそうという風でもあった。

「でも、本当に“レフティ”・コルティって引退しちゃうのかな? オレ、中学、高校、大学とアマチュア・バンドやってて、“レフティ”のコピーとかもよく演るんだけど……寂しいな……」

「引退しても彼の残した素晴らしい音楽は後世まで残るさ。決して色褪せることなく」

「だよね。オレにとっては永遠のスターだよ!」

「私も彼と一緒に引退するつもりだ。最近指の動きが衰えてきてね……もうここいらが潮時だろう……」

 沈んだ口調のピエールは目を伏せた。

「音楽のやれない私なんて抜け殻も同じ……生きてる価値もない……」

 俯いた彼の目から涙が零れ落ちた。

「もう死にたい……」

「そ、そんなに思い詰めない方がいいよ、ピエール……」

「頼む、ミシェル、私の命を終わらせてくれ」

 貴士の慰めも耳に入らぬかのように、熱に浮かされたように、ピエールは充に懇願した。

「私の中のルボロムを全て搾り出して死なせてくれ……」

「馬鹿を言うな。自殺の手伝いなんかするもんか」

 充はきっぱりと断った。

「……やはりそうだろうな……」

 ピエールは項垂れたまま沈黙した。充は一旦応接間から出た後、すぐに戻って来た。

「ただまあ、あんたの命、アルマンド・アルテリオ・ガルシアやサイキ・ヴィトリヒに奪い取られるのも困る。だから、死にたいんならここへ行け」

 テーブルの上に名刺を置き、日本語表記されているそれにローマ字で書き加えた。

「ISANAMI……? 何て読むんだ?」

「イサナミだ。諌波探偵社。そこへ行けばあんたみたいな『怪物人間』の始末をつけてくれる」

「そんな奴らがいるのかい?」

 貴士は驚きの視線を充に向けた。

「俺と雪絵は日本でヴァンパイア・ハンターの真似事をしてきた。地球古来の吸血鬼が血を吸うことで仲間を増やすのを防ぐためだ。なにしろ日本で一番吸血鬼としての血が濃くて一番パワーのある雪絵がハンターを務めるわけだから、国内じゃ無敵さ。だが、たとえ相手が吸血鬼であろうとも、心臓に杭を打ち込んだり、太陽の下に突き出したりするのは紛れもなく『殺し』だ。そうした罪を犯し、悪しき因縁の“貯金”を積み立てることは出来得る限り避けなくてはならない。そこで、捕まえた吸血鬼や“準デムヌーヤ”の処分は諌波探偵社に依頼するんだ」

「具体的にはどうするの?」

 コニーも興味津々といった風で尋ねた。

「なんでも『第一』、『第二』の『扉』を通り抜けることによって、魂の故郷(ふるさと)というか、宇宙生命の源が集まっている世界に到達するらしい。そこへ行くということは、所謂『この世』からは消滅することになるわけだが、誰も『殺し』に手を汚す必要がないんだ」

「悪しき因縁の“貯金”……」

 コニーはいろいろ考え込むような面持ちで呟いた。

「ありがとう、ミシェル。いいことを教えてもらった」

 礼を言ったピエールが急に過激な反応を示して立ち上がった。その視線の先には……

「遅くなっちゃってごめんなさい」

 飲み物をトレーに載せた雪絵が部屋の中に入って来た。ピエールは雷にでも打たれたように動揺し、彼女から目を離せずに凝固していた。

「ちょっと、ピエール……」

 コニーが眉を顰めた。ここまでの会話はドイツ語だったが、雪絵が加わったため、全員がわかる英語に切り替えたのだ。

「まさかあんた、ユキエに一目惚れ? 彼女人妻よ」

「う……あ……いや……」

 ピエールは激しくうろたえていた。

「えっ?」

 戸惑いの表情を見せる雪絵。

「まさに雷に打たれたような、だわね……わたしにも身に覚えがあるわ、つい最近のことだけど」

 そう言ってコニーは貴士を見つめて微笑んだ。

「でも、タカシとわたしと違って、あんたのは一方通行の片想いよ、ピエール。決して実らない恋……」

「……そうだな……」

 それだけぽつりと言葉を漏らすと、ピエールはがっくりと肩を落としてソファに座り直した。

「でもまあ、叶わぬとは言え、あんたにはまだ恋をする力があるってことじゃない、ピエール。死ぬのにはまだ早いんじゃないかしら?」

「ははは……君に励まされるとはね、コニー……」

 力なく笑うピエール。

「……いや、失礼した……私はこれで御暇しよう……迷惑かけて申し訳なかった……それじゃあ……」

 彼はしどろもどろなまま立ち去って行った。

 

 

 

   19

 

 その夜、立原雪絵は一人ゆったりと湯船に浸かっていた。

 不意に背筋に寒気を覚えた。背後に異様な気配を感じて凍り付く。そして、ルボロム同士特有の共鳴反応を捉えていた。デムヌーヤだ。徐々にその波動が近付いて来たのではなく、どんな魔法を使ったのか、突如として現れたのだ。

 相手はフランス語で何事か言っている。

「誰なの?」

 雪絵が英語で詰問すると、相手は同じ台詞を英語で言い直した。

「やあ、ユキエ……矢も盾もたまらずに来てしまったよ」

「だから、誰なのっ?」

 その男から身を離そうとするが、両肩を摑まれて動けない。そして、自分の生命エネルギーが吸い取られていくのを感じる。

──凄まじい吸引力だ!

 戦慄する雪絵。

「僕だよ、ピエールだよ。君に一目惚れしてしまったことはもうバレてしまっているよね?」

「ピエール?」

 かろうじて首を捻じ曲げて相手の顔を見ることに成功した。だが、そこにいたのは、昼間会った白髪の端正な顔立ちとは似ても似つかぬ冷酷な顔付きの男だった。墨ベタのように真っ黒い頭髪の男が黒い服を着たまま湯に浸かっている。

「誰なの、一体っ?」

「だからピエールだと言ってるじゃないか」

「違う! あなたは全くの別人だわっ!」

 それが何故ピエール・ベルジュを詐称する? あまりの異様さと不気味さに鳥肌が立った。

「僕の気持ちはもうわかっているだろう、ユキエ?」

 ピエールと名乗った男はねっとりとした手つきで雪絵の頬を撫でた。

「君は僕の恋人になるのだ」

「わたしは人妻よ」

 雪絵の顔が恐怖で引き攣った。身が竦んで、大声で夫を呼ぶということが思いつかなかった。

「知ってるさ。別にミシェルと別れなくたっていいんだ。僕を愛してくれさえすればね」

「そんなことはできないわ」

 慄きながらも、雪絵はきっぱりと言った。

「夫一人だけに女の誠を捧げる、そう誓ったんですもの」

「それは違うよ、ユキエ。僕を受け入れてくれれば、ミシェルとの暮らしもより幸福なものとなるのだ。僕には君を独り占めしようなどという無粋な料簡はさらさら無い。僕の、君への想いは純粋だ。君の人生の全てでなくていい。僕と共に過ごし僕を愛してくれたら、僕はそれで満足なのだ。頼むよ、ユキエ。僕の願いを叶えてくれ」

「いや!」

 雪絵は激しく首を振った。

「絶対にいやっ!」

「つれないじゃないか。自発的に僕の要請に応じてくれないのなら、僕は君に対して支配力を行使しなくてはならない。そうなったら、ミシェルとの仲も今まで通りというわけにはいかなくなるよ。それでもいいのかい?」

「何と言われようともいや!」

「わからず屋だな」

 自称ピエールは無表情に呟いた。

「じゃあいい。こちらも勝手にさせてもらう」

 冷ややかな微笑は、凄まじいまでに悪しき波動に満ちていた。

「む……? お前……身籠っているのか……?」

 男は妊娠して大きくなっている雪絵の乳房を摩った。やはりエネルギーを吸い取られていく。脱力感で雪絵は気分が悪くなった。

「残念だ……今日のところは一先ず退散しよう。せいぜい良い子を産むがいい。逢引はそれまでお預けだな……ではまた……」

 背後の気配が消えた。

「充さん! 充さんっ!」

 そのまま浴室を飛び出した雪絵は、走って来た充と扉の所で鉢合わせになった。無我夢中で濡れた体のまま夫にしがみ付く。

「雪絵、今のは何だっ?」

 妻を抱きかかえてはっとする充。

「お前……体が冷え切ってるじゃないか!」

「ピエールが! いえ、ピエールと名乗る奴が! 見たこともない奴がお風呂場に突然現れて……」

 雪絵はぶるぶると身を震わせた。

「そいつは嫌らしいくらいに冷たい顔の男じゃないか?」

「そうよ! 知ってるの、充さん?」

「知ってるも何も、そいつこそが『スペインの魔道士』アルマンド・アルテリオ・ガルシアだ!」

「あれが……でも、何故ピエールの振りをするの?」

「わからない……昔からピエールに成りすまそうとする奴だった……奴はお前に何を言ったんだ?」

「あの……男女交際を申し込まれたわ……」

 雪絵は心底迷惑そうな顔で答えた。

「……全く迷惑な話だ……人の女房に……」

 充も眉間に皺を寄せた。

「それにしても……この屋敷にも一通りの魔除けは施してあるのだが……さすがに『スペインの魔道士』には通用しないか……貴士やコニーとも相談して早急に対策を練らなくてはならないな……」

 充は妻の背中を優しく撫でた。

「もう一度湯に浸かって来いよ。体が氷みたいだぞ」

「一人じゃ恐いわ……」

 雪絵は夫に縋り付いて離れない。

「じゃあ一緒に入るか。俺も服がびしょびしょだからどうせ着替えないといけないし」

「うん……」

 

 

 

   20

 

 デイビッド・“レフティ”・コルティのファイナル・ワールド・ツアーが終わって数日が過ぎた頃、ロンドンのとあるレコード会社のプロデューサーの許に一本のデモテープが送られてきた。その曲が気に入ったプロデューサーは早速送り主の代理人に連絡を取り、シングルレコードを一枚制作して販売する契約を結んだ。

 レコーディングの当日、スタジオに現れたのは、ピエール・ベルジュ。同じ曲のピアノバージョンとアコースティックギターバージョンを数テイク録音して終了。

 

 

 

──これでもう思い残すことはない……。

 後のことは全て代理人に委ね、ピエールは再来日して諌波探偵社を訪れた。鈴木社長という人物に連れられて、何百年も生きてきた彼ですら体験したこともないような不思議な旅をして『第一』、『第二』の『扉』を通り抜け、その生涯を音楽のためだけに捧げたピエール・ベルジュは宇宙へ還っていった。

 

 

 

 その後発表されたピエールの遺作は世界的な大ヒットとなった。叶わぬ恋の辛さ、実らぬ恋の切なさを、超絶的な技巧で表現した名曲として多くの人々に愛され続けた。

 

 曲のタイトルは「SNOW PICTURE」……日本語に直訳すると、「雪絵」……。