前期 難波宮 と言われるのが、“大化の改新”の頃。
※ 難波長柄豊碕宮
難波宮から日本という国号、元号、の使用が始まったとされる。
後期 難波宮 と言われるのが、聖武天皇の頃。
そもそも、古事記や日本書紀で、“難波宮”があったらしい、ということはわかっていたがどこにあったかわからず、“幻の難波宮”であった。
1945年 第二次世界大戦が終わった。それにより、法円坂が大日本帝国陸軍陸軍から開放され、学術調査が可能となったのだ。
70年前。山根徳太郎(やまね とくたろう)博士が難波宮を発掘。「日本のシュリーマン」と称えられた。
※ 大日本帝国陸軍が 難波宮のあった辺りの用地接収をしていたため、調査が不可能であったが、第二次世界大戦が終わり、発掘調査できるようになったのである。
さらに、古(いにしえ)の時代
応神天皇のときの難波大隈宮
仁徳天皇のときの難波高津宮
…これらは、まだ幻である。