“天下三肩衝”の話 | Once upon a time by Bonze

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 ↑このブログで登場した、
   大名物茶入 “楢柴肩衝”
  …信長は、この茶入欲しさに、
    本能寺まで、ノコノコと…😅

 信長が、そこまで欲しがった茶入って?

戦国武将と茶の湯
 
 
 本『戦国武将と茶の湯』では、このように語られた。
 
 戦国動乱の世に、“天下三肩衝”と言われた名物茶入に、「新田(にった)」「初花(はつはな)」「楢柴(ならしば)」という三つの肩衝があった。このうち、「新田肩衝」茶入は、かの新田義貞が愛用したという、いわれの古い茶入であった。茶の湯の開祖、珠光の秘蔵品となったため、とくに「天下」と称せれた。「初花肩衝」茶入は、唐の玄宗皇帝の美妃、楊貴妃の香油壺だったという伝説があり、もと、足利八代将軍義政の愛用品、つまり、東山御物のひとつであった。
 そして、「楢柴肩衝」茶入は、珠光の高弟鳥居引拙の愛用品だったといわれているが、その前歴は明らかでない。…
『山上宗二記』には、「尻のふくらんだ形の肩衝だが、上薬は飴色で、一段と濃い」…
『宗湛日記』には、「口付の筋が二つ、腰に下がっている帯が一つあり、肩が丸く、なで肩である。筋のあたりに茶色の薬がある。土は青めに細かく、薬はずれは四、五分。底は糸切で、その切れ目がうしろの肌にかかっている」…
 それならば、「楢柴」の銘のいわれは、というと、これは、歌銘であるという。『分類草人木』という古い茶書には「箸鷹の狩場の鈴のなら柴のなればまさらで恋ぞまされる」という古歌の上の句は序詞であって、下の句に歌意がある。『山上宗二記』には、「薬が濃いので、その濃いに、恋をかけたものだ」…要するに、上薬の飴色が濃い、というだけで、このような、乙な歌銘がつけられたのだ。…

(…持ち主を転々とするがそうそうたる茶匠が所持し、その名を天下にとどろかせる…
 ……
 博多の豪商、島井宗室のもとへ… それから、ブログ『本能寺の変 信長の誤算』の話となる。
 その後は、大友宗麟から大金を出すので譲って欲しいと再三要請があったが、宗室はこれを断り続けた。のち、大友氏の衰退と逆に博多のある筑前で勢力を伸ばしてきた秋月種実が、この名物を欲したため譲る事となった。この際、秋月氏から大豆百俵が送られているが、楢柴の価値は約3000貫、現在の価値でいえば数億円以上ともされており、宗室ら博多商人が武力行使をちらつかせられ、半ば脅迫に近い形で奪われたのは歴然としている。)

 そして、秋月氏に奪われるシーン
 島井宗室は、(秋月からの)使者を島井屋敷の数寄屋に招き、心をこめて饗応した末、ついに「楢柴」を手放した。
 しかし、秋月の使者が門外に立ち去ると同時に、あらかじめ命じておいた大工らに合図して、数寄屋を取り壊させた。仮屋敷よりずっと念入りに造ったばかりの四畳の数寄屋だったが、武力をかさに、名器「楢柴肩衝」茶入を強奪された、汚らわしい想い出を永久にに消し去るためであった。

 しかし、秋月種実が手にしていた期間も長くは無く、九州征伐の際、島津氏に属していた秋月氏から、降伏の証として、豊臣秀吉へと献上され、“天下三肩衝”は、すべて、秀吉の物となった。後に徳川将軍家の所有となったが、明暦3年の明暦の大火の際に破損し修繕された後に、所在不明になったという。

 その九州征伐の話…

 天正十五年四月…秋月種実は、その娘を人質に出し、別に金子百両と米二千石、それに、名器「楢柴」を秀吉に献上し、秋月城を明け渡した。

「秋月めは、『楢柴』のために、命が助かりおった!」そのような風聞が、天下に鳴りひびいた。

「新田」…信長の所持…本能寺の変後、大友宗麟を経て秀吉の所持となり、大坂城落城後、徳川家康の命を受けた塗師の藤重藤元・藤厳父子が被災した新田の欠片を探し出し漆で継ぎ修復して家康に献上、一時徳川宗家所有となるが、後に水戸徳川家に伝わった。

「初花」…本能寺の変により流出。天正11年(1583年)6月までに賤ヶ岳の戦いの戦勝祝いに秀吉に贈られる。具体的な経緯は不明だが松平親宅が所有し、その後、徳川家康に献上された…

…「楢柴肩衝」茶入をめぐる戦いは、豊臣秀吉によって、終止符を打たれ、“天下三肩衝”は、秀吉のものとなった。そして、秀吉が死ぬと、徳川家康の所有に帰した。天下をとる者のところへ、天下の名器は転がりこむ。

…「新田」「初花」は、現存しているが、「楢柴」は行方不明である…🙏

 “新田”

 “初花”