NHK大河ドラマ
『軍師 官兵衛・第41回 男たちの覚悟』
官兵衛(岡田准一)の活躍で北条を討ち破り、秀吉(竹中直人)はついに天下統一を成し遂げた。しかし、秀吉の野望は尽きぬことなく海の向こうの大陸をも、手中に収めようとしていた。おね(黒木瞳)や千利休(伊武雅刀)は秀吉に「国を疲弊させるだけだ」と苦言を呈するのだが、三成(田中圭)の策謀により利休は切腹を命じられてしまう…。官兵衛は利休を救おうとするのだが、利休は秀吉への謝罪を拒んだ。
千利休(伊武雅刀)
織田信長のときから 御茶湯御政道といわれ 政治に活用された茶の湯。
豊臣秀吉はよりいっそう政治に活用していく。
千利休を擁し数々の茶会を催して その権威を示した。
秀吉の一族や家臣たちも茶の湯に親しんだ。
当初、官兵衛は 茶の湯は武将が好むものではない、と思っていたらしい。
それを変えさせたのは、秀吉であった。ある時、秀吉に茶室に招かれ、戦の密談をする。
そのあと、茶室で話せば嫌疑が生じることはない と秀吉に言われ、官兵衛は大いに感服した、という逸話。
官兵衛は、茶の湯を通じて、中央の文化人たちと、豊臣家の家臣たちと、堺や博多の商人たちと 交流する。文化的なことは、もちろん、そのときの政治に動きに連動することもあった。
慶長3年、秀吉の死とともに朝鮮出兵は終わる。(1598年)
翌年、官兵衛は正月に千利休の茶の湯の秘伝を「御茶堂之記(ござどうのき)」としてまとめている…次のとおり…
《利休流にて候間》
「定」
一 茶引候事 いかにも静二廻し 油断なくとゞこほらぬ様に引可申事
一 茶碗己下あかづき不申候様に度々洗可申事
一 釜之湯一ひしゃく汲取候ハゝ 又水ひしゃくさし候て まとひ置可
申候 つかひ捨て のみ捨てに仕間敷候事
右我流にてはなく 利休流にて候間 能々守可申事
惣而人之分別も静とおもへば油断二成 とゞこほらぬとおもへば せわせわしく成候て 各生付得方二成候 又随分義理明白なる様二おもへども 欲あかにけがれやすく候
又親主の恩を始 同輩家人共之恩も預リ候事多ク候処二 其恩を可報とおもふ心なく 終二神仏の罪かぶり候
然者右三ケ状朝夕之上二ても能々分別候ため書付置候也
慶長四年正月 日 如水
……利休の死去から8年
“我流にてはなく 利休流にて候間 能々守可申事”
官兵衛の茶の湯は、利休流 なのだ。
【福岡県のホームページ・ http://www.pref.fukuoka.lg.jp/somu/graphf/2013autumn/walk/walk_01.html】
武人として名を馳せた官兵衛ですが、その一方で「連歌」や「茶の湯」にも優れた感性を持つ文人としての側面もありました。とくに茶の湯では、豊臣秀吉や千利休から深い影響を受けています。
今でこそ茶道は"趣味"の色が濃く、愛好者の多くは女性ですが、戦国の世では男の領域でした。
戦功の褒賞として小さな茶道具が与えられることもまれではなく、茶の湯は武士にとって一つのステータスであり、茶室とは武士たちが腹を割って話すことができる場でもあったのです。
官兵衛は当初、茶の湯にはさほど関心を示さず、むしろ「勇士の好むべきことでない」という考えでした。しかしあるとき、秀吉の一言で心を入れ替えたという逸話が『名将言行録』に載っています。秀吉いわく「武士が他の場所で密談をすれば人の耳目を集めるが、茶室ならば人に疑われることもない」。秀吉の一言で足を踏み入れた茶の湯の世界ですが、官兵衛はその奥深さに魅了されます。とくに千利休を尊敬して浅からぬ縁を結びました。秀吉の邸宅である聚楽第(じゅらくだい)で開かれた茶会で、官兵衛が秀吉や利休と同席したという記録が、『天王寺屋会記(てんのうじやかいき)』に残っています。また官兵衛の茶の湯観を表した『黒田如水茶湯定書(くろだじょすいちゃのゆさだめがき)』でも、「(自分の流儀は)我流にてはなく利休流にて候」と書いています。生涯を戦いに明け暮れた官兵衛にとって、静かな茶室で一服の茶をたて、しみじみと味わうひとときは、何よりの心の安らぎだったのかもしれません。
官兵衛の子・長政や、孫・忠之なども茶の湯には深く親しみましたが、三代藩主光之の重臣だった立花実山(たちばなじつざん)は、その後の茶道界にとっても重要な役割を果たします。利休の茶の湯の精神や心得を表した“茶道の聖典”とも呼ばれる「南方録(なんぽうろく)」を、後年実山が編さんし、今に伝わっています。
福岡には今もその教えに即した茶道「南坊流」が受け継がれ、多くの人に親しまれています。