正攻法を捨て、狡さを突き詰める | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

卑しさよりも狡さが勝りつつありますが、そこに何とも妙な魅力を感じます。

 

「自らの中に何が在ってもおかしくはない」とは言え、私とて自らの全ての性質を発見しているわけではありません。

 

出て来た狡さの様なものは、私にとって知識では知っていても感じた事の無いもの、つまり知らないものなのですが、随分しっくり来る気がします。

 

感じている妙な魅力が“富”なのか?

 

それを確かめる為には正攻法を捨て、このまま狡さを突き詰めて行く他ないでしょう。