フィルターを入れ換える | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

フィルターを入れ換えれば、好きな色が見れます。

「何て『自分』は不幸なんだろう…」と思う時は、単に不幸色のフィルターが掛かっているというだけです。

不幸色のフィルターを掛けたまま、いくら「幸せになりたい」と願ったとしても、いつも見えるのは不幸色です。

赤いフィルターを掛けたまま、「緑を見たい」と願っても、それは無理である事は当然の如くご理解頂けると思います。

そうすると「どうやってフィルターを入れ換えればいいのか?」という疑問が湧きます。

ですが、「どうやってフィルターを入れ換えればいいのか?」という疑問そのものが、今のフィルターが見せる色でしかありません。

フィルターがフィルターを入れ換える事は出来ません。

フィルターを入れ換える何者かが必要です。

その何者かは目の前のフィルターの色を今も眺めています。

そして、その何者かが「フィルターを入れ換える」と意図しない限り、フィルターはずっと同じ色をしたままです。

このフィルターの別名を『自分(エゴ)』と呼びます。

さらにこのフィルターの最大の特徴として、自動音声発生装置が搭載されています。

その自動音声発生装置が発する音声(思考)は、フィルターの性質に完全に添います。

不幸色のフィルターであれば、「『自分』は不幸だ」とか「幸せになりたい」などといった音声が絶え間なく頭の中を流れる事でしょう。

「幸せになる為に」あれこれ願望を抱き、奔走する事になるでしょうが、それもまた不幸色のフィルターが見せる映像の範囲内の出来事に過ぎません。

前置きが長くなりましたが、フィルターを入れ換える『方法』です。

『方法』という言葉を使うと、どうしても「フィルター自身が何かをする」と解釈してしまいますが、このような場末のブログにさえ来て頂ける位、スピリチュアルについて関心を持たれている方になら何を意味するか通じると思って書きます。

まずはフィルターと分離します。

別の表現で言うならエゴと分離して、エゴを観賞します。

これで一体化していたフィルターの色とは無関係になります。

いかにフィルターが「不幸だ!幸せになりたい!」という音声を発していても、遠くから聞こえるチャルメラの音と同じで、一切自身との関係が断たれます。

次にそのフィルターを観察します。

別の表現で言うなら、自己観察します。

そのフィルターが何を見せているか、そして自動音声発生装置がどんな音声(思考)を発しているかただ黙って聞きます。

無関係と言えどもダイレクトに響く音声ですから、当然不快な感情も湧きます。

それも黙って味わいます。

この時、あまりに感情が強くて感じ続ける事を耐えかねる場合はすぐにやめます。

我慢や抵抗ではなく、スッキリ受け入れる事が出来るまで、フィルターからの分離と観賞を続けます。

…ある時突然そのフィルターに「飽きます」。

この瞬間、憑き物が落ちたような感覚を伴うかも知れません。

とにかく、そのフィルターはどうでもよくなります。

そのフィルターは二度と掛かりません。

何かの切っ掛けで「不幸だ!」という音声が聞こえる場合があっても、それは過去のフィルターの記憶によるもので、今とは何の関係もありません。

『幸せ色』のフィルターを通して聞いた「不幸だ!」という音声は、ただの「不幸だ!と聞こえるだけの音声」に成り下がります。

不幸という意味は理解出来ても、感覚はもう理解出来ないでしょう。

不満や不安、不足を感じたとしてもそれらは単独で一過性のものであって、不幸と結び付ける事もありません。

フィルターと分離した時に、フィルターの対極に在る『何者か』。

そして、フィルターを観賞している『何者か』。

それは「今に在る」時、現れる『何者か』と同一です。