東京は梅雨入りをしたらしい。

 

遠くに感じる記憶ではあるけれど、雨の日の東京タワーが好きだった。

 

おあいにく察する人がいるであろう、きちんと江國香織の系譜だ。

 

 

 

この頃、MBTIやらなんやらで、”人”をカテゴライズした上での理解、が発展していているように思える。

私もそれについては大勢の中の一人で、自分自身のMBTIについては合っていると思っている側だったりで。

 

 

そこに書かれていた親しい人に見せる本質の根暗と、雨の日の東京タワーは、底の憂鬱さを視覚化した景色として映っていた。

 

 

孤独と憂鬱は嫌っていない。

私にとっては心地のいい感覚、の方が近い。

 

 

 


 

 

 

いつもに比べたら弱っている、あ、これは弱音というよりも、残酷、もっと怠惰ってこと。

これ大丈夫かな?なんて心配事が、絶えないね。

”信じる”と”期待する”は別のものでして、なんかもっと定数なのよね。

そう、他人は変数ではなく、定数。

もちろんそれが全てではないけれど。

 

だからそれで一蹴できる話。

頭では、わかっている。

 

不安だから考える、安心できることは考えなし、だが。

 

あれほどちきしょう、と思って悔しい思いをして整備してきた安全地帯も慣れてしまったことによって

ニンゲンの悪い部分を痛感している。

 

 

そうね、恋愛に夢中になっているあの子もきっとそう。

 

 

 

相変わらず仕事の方は淡々と粛々と進んでいる。

私という存在価値を見出そうとするよりも一つづつを丁寧に進めていけたら、それでいいかな。



満足は人を退化させる毒。

私はまんまとその毒を飲み干しそうで怖い。

 

ただ枯渇しているほどに自分のことを嫌いにはもうなれない、終わりが見えないまま走ってきたよりは安定しているが、

強者になるにはまだまだ足りないことが多い、ね。

 

 

なんてところで文頭の記憶を思い出した。

 

自分で自分を認めてあげられてなかったあのときの景色はそんなに悪くもなかったかな。

 

 

 

 

ところで喉から手が出るくらいに欲していた実力ってなんだったんだろう?

毎日実力不足だって自分のことを責めてきたんだけれど、

じゃあそれの正体って一体何?

 

結果が全てだよ、だからいい過程が大事だよ、そんなことはわかってるけれど、

辞書で引いた言葉じゃなくって、何かを理解したかったな。



自分にとって相性のいいものだけ、

食べていたいものだけ、でやっていける線もあったはずなのに好奇心という魔法で知らない性質のものに多く触れる機会ができた。


誰も私を知らない、それがなんともこの憂鬱な時期にはぴったりだったり、して。 

 

 悪いな、と思いながらにはなるけれど

カテゴライズしなければ理解できないのなら、いっそのこと放っておいてもらいたいと思うのはきっと私だけじゃないと思う。

どこかの棚にいたいよ、いれるなら。


でもその棚は見てきた全てになってしまうでしょう?と言って過言じゃないでしょ?


当てはめられるのが嫌、ってわけではないのにね。



ひとりといって同じ人なんて、私は会ったことなんてない。



最近はこんな疑問についてさえ、土産話で持っていける場所も減ってしまったから久しぶり会いに行こう、なんて思ったりして。