六月。紫陽花が雨に打たれるのがすっかり日常となった頃。姫は学校中に存在を知られたらしく、告白三昧の日々である。――勿論、受け身の意味で。
最初の頃こそやきもきしてみたり、誰と付き合うのか気になったりもしたが、ここ最近はむしろ楽しみになってきている。
水星の石を持ってきてくれたら付き合っても良いわ。――から始まって。――一角獣の角の欠片を持ってきてくれたら…。孔子が泣き叫んだという麒麟の死体を…。打出の小槌を…。耳無し芳一の耳を…。キリストが最後の晩餐に用いた聖杯を…。邪馬台国の遺跡から砂を…。昔英雄が土に挿した杖が根付いて大木になったものの枝を…。天女の羽衣を…。人魚の鱗を…。
――昨日までで九人の男たちと一人の女から告白されて、例によって例のごとく受け入れることもはね除けることもせず、のらりくらりとそんなことを言い続け、今やどの学年の廊下を歩こうが“かぐや姫”の名が囁かれ、騒がれる。その度横に並んでいるのは誰だ、と指差される俺からすれば、あまり心地良いものではないが、当の本人は幸せそうなので良しとしておく。
「竹姫お姉様はいらっしゃいますか?」
かぐや姫を竹姫などと呼んでいた時代は無かったと記憶しているんですが。というか、姫は一年生なので、確実にあなたのお姉様ではないと思いますが?
と胸中で苦笑しながらも、確かに妹タイプである顔を赤らめた少女の為に竹姫お姉様を呼んでやる。
「姫、呼ばれてる」
「んー。行ってくる」
「ご飯先食ってて良い?」
「駄目。待ってて」
「はいよ」
成長期真っ只中の男子高校生にとっては拷問に近いお願いをさらりと置いていった姫に小さく溜め息を着き、けれど諦めるしかない、と己を納得させつつ、姫の可愛らしい鞄に自分の弁当箱やらデザートのパンやらを突っ込んで、姫様のそれらも放り込む。テディベアと女の子が散歩している絵が印刷された通称スクール副鞄を肩に引っ提げて、教室を出た。――廊下に出れば訝しげな視線を送ってくるやつもいるけど、大半がかぐや姫の御付きだと思いだし、すぐに納得された。――たぶん、あまり良い傾向ではない。
最近の姫君は混じりっけのない雨音が聞ける理科室がお気に入りらしく、昼休みはいつもそこで過ごしている。
先に行っておけばそれで「どうしておいてくの?」とお怒りを落とすくせに、教室で待っていればそれで「グズ!」と毒を吐かれるので、どちらが良いのか悩みどころではあるけど、女王様プレイよりもおねだりプレイの方がまだマシか、と思うと今日のように先に失礼するのだけれど…――どうも、下僕プレイが抜けない今日この頃である。なまじ、姫は女王様であるということが周知の事実であるうえ、本人が恋人はいないと断言しているものだから更に俺の定位置は格下げされ、今に至るのだ。
―――自覚済ではあるが、どうも俺の生活が姫妃に振り回されている。
理科室のドアを開け、電気のスイッチを押すと、一瞬のタイムラグのあと蛍光灯が役目を勤め始めた。
窓際の実験台に手提げ鞄を乗せ、カーテンを開くと、雨が窓を通過して室内にさえも降り注いでいるのかと錯覚するほどに、水音が辺りに響いていった。
パラパラ。ポツポツ。たたたた、た。トツトツ、トト。ダンダンダダダ。
本物の雨音というのはこれほどまでに鮮やかなものだったのかと、姫に教えられ、初めて知った。
聴覚も視界も体感温度も鼻孔も喉の潤いさえ水に支配されて身動きが取れないと自覚した直後、甘いフルーティな砂糖菓子の香りが漂ってきた。
「おまたせ」
瞬間、雨は窓に遮られ、室内は適度な湿度と温度に早変わりした。
正にかぐや姫だ。月から舞い降りた宇宙一の美貌を持った姫君。その美貌に惚れ、総てを平等に引き連れる筈の神様方はこの姫様に一切合切の“世界”を預けたのだ。――殺那、本能にそう訴えられた。たぶん、神様方からの忠告だ。…と本気で信じた。
「どうかした?ぼうっとして」
「いや…なんでもない」
「そう?変なの」
あ、お弁当ありがとねと姫は笑い、椅子に座った。
「食べないの?」
「あ?…あぁ、食べる」
俺が席につくのと同時に姫は行儀よく「いただきます」と手を合わせて、箸を手にした。
弁当の包みを開きながら、前々から気になっていたことをそう言えば…と思い出した。
「姫さぁ、香水って毎月変えてる?」
「それ、嫌だ」
「それってどれ」
明らかに質問の答ではないそれに、けれど取り敢えず付き合うことにした。
「姫って呼び名。あとかぐや姫も嫌」
「自分の名前なのに?」
「望んだわけじゃないわ。姫なんて名前いらなかった」
断言する姫には隙入ることが出来なさそうなので、両手を上げて降参のポーズを取る。触らぬ姫に祟り無し、だ。
「わかった。じゃあ、何て呼ばれたい?」
え?あーじゃあ…――一瞬逡巡したかと思うと、すぐにニンマリとした笑みが返ってきた。
「姫妃…とか?」
「姫妃?良いよ」
どんな要求がくるのかと思えば、他愛もないそれに、少し拍子抜けした。――女王様、とか、ご主人様、とかなら懇切丁寧にお断りを申し入れようとまで考えていたのだ。
相手は相手で、俺の反応が期待外れだったらしく、呆然としたまま
「良いの?」
「なんで?良いよ」
「誤解されない?」
「誤解って」どんな。
――あぁ。成る程。
最後まで言い切る前に、思考が巡り、思わず笑ってしまう。
「今更、だろ」
犬だか下僕だか召使いだかアッシーだか荷物持ちだか奴隷だか執事だかと好き勝手に噂されているのだ。それに生き別れの弟だとか幼馴染みだとかが加わっても何ら支障はない。敢えて言うなら、姫に――姫妃に片恋の相手がいて、もし万一その相手が俺と姫妃の間に恋愛感情を感じるほどお惚けな人間なら、控えた方が良いのかもしれないけど、生憎この学校にはそんな面白味のない妄想を巡らすような奴はいない。
「今更、なの?」
「でしょう」
「そう」
曖昧に相槌を打った姫妃は、けれどどこか優しげな笑みを浮かべている。
「で?その香水」
「え?あぁ、うん。毎月変えてるよ?」
「趣味?」
「んー…伝統、かな」
「伝統?」
「かぐや姫は五感全てで魅了したらしいからねぇ」
「かぐや姫?」
嘲りが混ざったからかい口調の姫妃がどこに向けているのか分からなかった。――ただ、
「伝説だよ。ただの。親が好きなの、そういうの」
「姫妃は?嫌い?」
――ただ、姫妃が楽しいならそれで良い
「楽しいよ。自分が想像してた香りを思いのままに漂わせることができたら、尚更」
姫妃の物言いに気付く。
「姫妃が作ってんの?」
「混ぜてるだけだよ」
大袈裟。と姫妃は笑ったが、たぶん混ぜてるだけでは想像を現実にするなんて無理だ。少なからずしたのだろう努力を軽々と流す姫紀は。
「そ?」
「そう」
断言した俺に、姫妃は暖かな笑みを向けた。
ご飯を食い終わり、一息着くと、思い付いたように姫妃があ!と声を上げた。
「なに」
「ねぇ、海行かない?」
然もたった今思い付きましたとでも言いたげな雰囲気だが、騙されない。この数日姫妃が海に行きたがってることは承知済みだ。
「駄目」
「なんでー?あ。もしかして皇夏、山派!?」
「男で山派な奴はただの筋肉馬鹿です」
「なら行こうよ、海」
「嫌だ」
「嫌だが嫌」
制服も夏服に衣替えされて早一週間。姫妃の制服がキャミソールを透けて見せていることぐらいで理性と闘わなければならない男の目の前に、面積の少ない布っ切れ一枚で立とうと思わないでほしい。俺以外にもそんな状況に陥っている奴らから姫妃を守ることにも必死なのに、これ以上仕事を増やさないで頂きたいことでもあるし。
「あ!ねぇ、じゃあさ、海はいいから私の家、行こ」
「は?」
「だって、皇夏の家には連れてってくれないでしょ?」
なんで俺の家で遊ばないのかは考えていないんですね、お嬢さん。
――いや、二人きりとは限らないかもしれない。両親とご対面とかは是非とも遠慮したいとこれではあるけど、道徳的にも理性的にもそっちの方がまだ幾分も好都合だ。だいたい、高校男児に対してその無防備さは余程信用度が高過ぎるか、
「明後日の土曜なら親もいないし」
――嘗めてるかだ。
甘い声に初めて苛立ちを感じつつ、どう断ろうか考えていると、「だって、皇夏最近遊んでくれないんだもん」の逆転ホームランが飛んできた。
「テスト期間でしょう、もうすぐ」
「だから何?」
「…あのねえ、お嬢さん」
拗ねた姫妃は可愛いけど、テストに追われたことのないほど勉強好きなこの人とは、どうやっても、その分野での会話が噛み合わない。常日頃から努力していることを知っているから、尚更。
「遊びに行きたいなら、遊園地でも水族館でも動物園でも、なんなら山にでも行くから、姫妃の家と俺の家と海は勘弁して」
「遊園地飽きたもん」
飽きたもん、と言いますが、飽きるまで五月、六月と毎週のように俺を振り回したのはあなたですよ?――と言おうもんならまたしち面倒なことになるのは解っているので、他の候補を挙げていくことにする。
「じゃあ水族館」
「たかが魚、見ても楽しくない」
「じゃあ動物園」
「動物アレルギーだもん」
「じゃあ山は?」
「皇夏も私も山派じゃないじゃん」
「いや、別に海派だからって山に行っちゃいけないわなけじゃないから」
「知ってる」
「あそ」
姫妃はもういい、と首を振って、窓の外に目をやった。
――それが一番つらいんですが。
「なぁ、なんで海行きたいの?」
「なんで行っちゃいけないの?」
体を窓に向けたまま、俯いてぼそぼそと発せられる言葉に、一先ず安堵する。喋る気はあるようだ。
「それは前聞いた。じゃなくて」
「だって」
「だって?」
「海、行きたいって言ってた」
――あぁ、なるほど。
「俺、だよな?」
小さく頷いた姫妃を愛しく感じながら、数日前の教科書を借りに来たケンとの会話を思い出す。確かに「夏になったら海に行きたい」と言った。――但し、花火をしに。
「分かった。姫妃の家なら行くから、海は諦めろ」
「ホントに?」
「親のいる日な、絶対」
それがギリギリの譲歩だ。取り敢えず親がいたら俺だって手を出さないだろう。…たぶん。
「約束ね?」
ふふっ、と柔らかに笑った姫妃は小指さえ立てなかったけど、幼い笑みを浮かべた。
「やっぱり皇夏は甘いなぁ」
幼稚な笑みから一転して、にんまりと口角を上げた姫妃が目に写る。
――姫妃に出会って以来、俺の生活が姫妃に振り回されていることぐらい自覚済だ。
≫≫ continue

