北の大地のブログ
明治25年10月 神戸又新日報(こうべゆうしんにっぽう)に神戸市役所が死亡広告を載せた。





 「神戸市の郊外の路上で病気のため倒れていたのを発見し、救護していたが、死亡した。心あたりのものは申し出ること」とあり、その人物の名を「村橋久成」としていた。





 着ていたものは、シャツ1枚に白木綿の三尺帯という裸同然の壮絶な死であった





 開拓使にいた村橋は、サッポロビールだけでなく葡萄酒醸造所や牧羊場の創設など北海道の産業の基礎になる事業を手がけていたのである。そして、それらを輸出していこうとする視野の広さを持っていた。





 ところがである。開拓使長官の黒田清隆が、開拓使の財産を同郷の商人 五代友厚にべらぼうに安い価格で処分しようとしていたのである。有名な開拓使官有物払い下げ事件である。





 村橋が突然、辞表を出して開拓使を去ったのは、この事件発覚直前の明治14年5月。手塩にかけて作り上げてきた数々の財産を食い物にするやつがどこにいるんだと思ったに違いないと思うのです。





 五代友厚といえば一緒にイギリスに密航したメンバーではなかったか。開拓使に誘ってくれた黒田清隆とも決別し、村橋は、周囲の慰留を振り切り、放浪の旅へ出たのであった。





 彼は一体どこでどんな人生を送っていたのでしょう。





 開拓使を去って11年後の悲報に多くの人たちが葬儀に駆けつけた。


 香典料人名帳には、逓信大臣の黒田清隆をはじめ、外務大臣の陸奥宗光、屯田司令官の永山武四郎などの記載がある。





 村橋久成を思いだしながら、サッポロビールを飲むとするか。







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