白虎隊で有名な会津藩。幕末に藩主の松平容保が京都守護職として新撰組などを使いながら攘夷派を取り締まっていたため、薩摩長州の恨みは根深かった。


 藩主は、孝明天皇から尊王の心を認められ、緋の御衣まで下賜されているのに、ついには朝敵、逆賊となってしまったのである。


 そして、会津戦争へ。会津藩の悲劇的敗北。鶴ヶ城明け渡しの式に敷いた緋色の毛氈(もうせん)。これをこの状況を決して忘れまいと出席者で分けたそうである。


 降伏した会津藩士の処置については、参議の木戸孝允らが北海道開拓に使おうとしたのだ。


 そして、明治4年に余市移住がなされた。しかし、当初は慣れない農耕に苦しみ札幌や小樽へ移住するものが続出した。





 明治8年アメリカのお雇い外国人ケプロンがりんご、なし、さくらんぼの苗木を配布した。それから4年後、旧会津藩士の羽源八の育てたりんごは、国内初の民間栽培・商品化に成功するのである。


 名付けて「緋衣(ひのころも)」。


 尊王の証と屈辱の敗北の象徴のとしての「緋」。明暗両方のイメージとして名付けられたという。なかなか含蓄のあるりんごの名前だと思われる。蛇足ながら作った人も、羽氏ですから役者が揃ったというか・・・


 その後、幻のりんごと言われていたが、何と福島県の会津若松市で平成19年に復活したのである。震災を経て現在はどうなっているのだろうか・・・

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