明治17年埼玉県の現・吉田町の椋神社(むくじんじゃ)に終結した3000人程の農民が圧制や高利貸し退治をかかげて戦い、一時、大宮郷の役所を占拠しました。しかし、軍隊によって戦いは鎮圧されてしまいます。


 その後、欠席裁判で死刑判決を受けた会計長の井上伝蔵(いのうえでんぞう)が、北海道に逃走し、死の間際に自分の秘密を家族に打ち明け

るという話は以前のブログで紹介しました。(去年の6月10日秩父へ行って亡き同志を弔え・6月14日秩父事件と井上伝蔵の逃走)


 実は、伝蔵は途中まで行動を共にしたあと2人の名を挙げていたと考えられます。一人は、井上善作で、もう一人は、公表するといろいろ差し障りがあるということで新聞社のほうで伏たのです。


 研究者のその後の調査によりその名が判明しました。


 その名は、乙大隊長であった飯塚森蔵。蜂起の前は、小学校の校長先生でした。


 後藤平吉と変名を使い、白糠(しらぬか)のコタン近くに住み、コタンの人にまざって生活をしていたのです。


遺言で自分の身の上を伝蔵のように明かしてもよさそうなのにそれもないのが不思議でしたがそのわけが分かりました。


 それは不慮の事故により舌を噛み切り死去したからでした。何とも無念な話です。事件について語ってもらいたかったですね。


秩父事件―森蔵コタンに死す 四国愛媛、謎の偽装死

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