みたこと、聴いたこと、思ったこと等の 独り言。時々ですます調。 ブロックはご自由にどうぞ。

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創価学会は、元々は末法の御本仏日蓮大聖人の在家の信者の団体でした。
平成3年に日蓮正宗から教義逸脱等により破門され、今では 仏教的・平和主義的・人道主義的等の雰囲気を持つ 政治的な営利団体へと変貌しました。
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なんのために生きているのかという 問いかけについて 考えてみました。

なんのために生まれてきたのかとか、なんのために生きているのかという問いかけは、例えば ツチノコはほんとうにいるのか、いないと証明できるのかというような、わかるようで わからない、 わかるはずもないことを ずっと考えているようなもので、見つかるはずのない答えを探しているうちに 今世が終わってしまうような問いかけではないでしょうか。

心が疲れているとき、ひとは考える必要のないことを ぐるぐる考えてしまうそうです。

しばしば 心が疲れているひとの言っていることを見聞きすると 適切でない言葉の言い回しを 繰り返し使っているのに気付きます。

「ために」 とは 例えば、感染予防のためにマスクを着用する とか、停電のために電車が遅延した など 具体的な目的や 原因を指し示す言葉です。

生きていること自体に 目的や原因を求めることは 無理があるのですから、なんのために生きているのかという問いかけの中の 「ために」 は不適切な使われ方だと思います。一生考え続けても答えは見つかりませんし、もし これが答えだ!なんぞ言い切る人は ちょっと嘘つきなんだと思います。

以前ちょっと書きましたが 「くれない」 をよく使うひともあります。

なので、ふと 心の病は 不適切な言葉の使われ方によっておきているのではないかとさえ 思ったりしてしまうのです。

創価学会員の方々は 常日頃から、聖教新聞や 大白蓮華等の活字で 極端な表現に接していて なおかつ、日常的な学会員どうしの会話でも 特別な言い回しが とてもたくさん 使われますから、 だんだんと それらの言葉を使って ものを考えるようになるのです。むしろ それらの言葉以外 受けいれない、あるいは理解できなくなっているようにも 見え、語彙は少なく限定的で 知らない言葉に対して攻撃性を持つひともあるのです。


私自身の反省も含めてなんですが、自分自身を追い詰めるような言葉・人を追い詰めるような言葉、卑下するような言葉を 何度も使ってしまうときは 辞書などで 本来の言葉の意味や 適切な使い方を ちょっと調べてみると 善いのではないでしょうか。

それから、一日の中で 感情を動かさず 何も評価をしない時間を持つことは とても大切だと思います。

私の場合は、毎日草抜きをしたり 快い音楽を聴いたり 書写に熱中したり、キッチンで洗い物をしたりするのが すごく楽しいし、無心になれます。

また、辞書や地図、歴史書などには 事実以外書かれていませんから 余分なことを考えてしまうときには これらは大変有用に思います。あるいは、健康な人なら 筋トレや 散歩なども良いのではないでしょうか。

五座三座の勤行・唱題行は  私は、ちいさい子どものように 一生懸命行います。御開扉のときのイメージを心に浮かべて  御本尊様・御本仏と 御僧侶を親のようにお慕いするのです。

心が疲れてしまったときは、あれこれ考えこまないよう、あえて少し面倒なことを ひとつづつ 行動することが 善いのではないかと思っているのです。