「日葬祭典 回想録」は「葬儀の話」「ヤクザの話」「神輿愛好会 櫻睦の話」「雑談」の4本柱で書き込みをしています。

 

西口会長が葬儀に参列する時には必ず葬儀式場の入り口の前に車を横着けにして、後部座席から降りて来てそのまま控室に行きます。そして式が始まる少し前に葬儀式場に入って来て席に着きます。式が始まって葬儀委員長の挨拶あり、挨拶が終わってからお寺さんの読経が始まってから5分くらいすると、1番最初に西口会長が焼香をするのが決まりなのです。

 

葬儀の時はこの様な状況が20年以上続いていましたが、この時の葬儀では西口会長は葬儀式場の手前で車から降りて、葬儀式場まで歩いて行って葬儀式場に入って行って、お線香を1本上げてそのまま葬儀式場の外に出て来たのです。この様な事は今迄に1度もありませんでした。この時の葬儀はJR中央線「高円寺」にある寺院が運営する「葬儀式場」執り行われたのです。

 

5日前に東京都葛飾区「四ツ木火葬場」の中にある葬儀式場で、8月に「住吉会」本家当番長で飛高組長の葬儀が執り行なわれていたのです。本来ならば「住吉会」の大規模な葬儀は7月、8月には行なわれないのですが事情があって規模を小さくして行なはれたのです。

 

葬儀が終了して葬儀式場をバックにして「住吉会」執行部の委員長の各一家の総長が横一列に並んで、その前に参列者の人達が並び終わったので、慶弔委員長が参列者の組員の人達に対して会葬御礼の挨拶を始めて少し経ったら、「稲川会」大前田一家二代目小田組の2人のヒットマンが「住吉会」の組員の人達の中に紛れ込んでいて「向後睦会」熊川四代目会長と、「滝野川七代目」遠藤総長をピストルを乱射して殺害をしたのです。

 

葬儀式場での抗争事件はヤクザの世界では掟破りなのですが、ヤクザの抗争事件では史上初めての他団体同士の抗争事件でした。ヒットマンの2人は組員の人の車に乗せられ何処かに連れ去られたのですが、警備をしていた警視庁捜査4課の知りあいの刑事さんから「中村社長、相手が殺されたら大変な事になってしまう」と私に言うので、直ぐに西口会長の所に行ってその事を話したのです。

 

そうしたら西口会長が「中村、もうそういう時代では無いよ」と言って、私の携帯電話から何処かに電話をかけてしばらくしたら、2人のヒットマンが何処かの警察署に出頭したのです。その時に殺害された「向後睦会」四代目会長、熊川邦夫さんの葬儀をここの葬儀式場やる事になり、すべての準備が終わって午後6時からのお通夜の1時間前に葬儀式場の入り口に車から1人で降りて来たのです。

 

そしてそのまま葬儀式場の中にに入って行ってお線香を上げたら葬儀式場の外に出て来て立っていたのです。5分位したら西口会長の家族の方が乗っている車が葬儀式場の中に入って来て、車から西口会長の家族の方が降りてきてそのまま葬儀式場の中に入っていきました。熊川会長の家族の方は4時30分に葬儀式場に到着していて葬儀式場の中にいました。

 

お通夜に参列する人は全員で40名と決めてありました。葬儀式場の中には熊川会長の奥様と息子さんと娘さんがいましたので、西口会長の奥さんと息子さんと娘さんが隣の席に付いていました。西口会長の息子さんと、熊川さんの息子さんは仲が良くて2人で一緒にアメリカに留学をしていたのです。

 

この葬儀式場は1階が葬儀式場になっていて、パティーションで仕切られていて参列者の人が少人数の時はパティーションを閉めるのですが、この時は参列者の人が40名と決まっていたのですがパティーションを開けて余裕を持って40名の席にしておいたのです。2階がお清め所が2部屋と僧侶控室があるのですが、葬儀式場に来た参列者の人は誰も2階に上がらないで1階の葬儀式場の中に座っていました。

 

亡くなった熊川さんは「向後睦会」四代目で、西口会長は「向後睦会」二代目で西口会長の跡目を熊川会長が継承したのです。おそらく西口会長は熊川会長のお柩のそばにいるのが辛かったのだと私は思いました。その為にお線香を上げたら葬儀式場の外に出ていたのだと思いました。私が外に立っている西口会長の横を通り過ぎた時に西口会長から「中村」と呼び止められました。

 

「中村、よく葬儀式場を借りられたな」と言うので、「ここの式場をよく使っているのと、事情がわかったいるので気持ち良く使わしてくれました」と話したら、「葬儀が終わったら挨拶に行きたいので、中村も一緒に来てくれ」と言われました。まだ参列者の人が殆ど来ていないので私が西口会長に「警視庁捜査4課の刑事さん達も、西口会長が犯人を出頭させてくれた事に大変喜んでいました」と話したら、「時代が変わったからな」と西口会長が葬儀式場で言っていた事と同じ事を言ったので、「住吉会」は他団体に抗争事件を起こされてもこれからは報復はしないんだろうなと思いました。

 

西口会長と話している途中で葬儀式場の入り口から西口会長の兄弟分の親分が西口会長に近よってきたので、少し離れた場所に立っていたら西口会長が「兄弟、後で話があるのと頼みがあるのでお通夜が終わっても帰らないで欲しいんだ」と言う声が聞こえてきました。普段はヤクザの葬儀の時はお経を上げている時でも自分の焼香が終わったら「自由焼香」といって、そのまま帰ってしまうのですが、西口会長は兄弟分の親分の人達に用事があるのでお通夜が終わっても帰えらないで欲しいんだと思いました。

 

その兄弟分が式場に行ったら西口会長から呼ばれました。「中村、お通夜が終わったら5~6人で話せる部屋があるか?」と言われたので、2階にある「僧侶控室なら大丈夫ですよ」と言ってから「お寺さんにお経が終わったら衣を着替えないで直ぐに帰ってもらいますから」と話したら、西口会長が「誰も近ずかない様にしておいてくれ」と言われました。

 

直ぐに2階のお清め所に行って配膳の責任者の人に事情を話して、お通夜が終わったら僧侶控室にお茶とお茶菓子を10人分用意する様に頼んでおきました。そしてまた葬儀式場に誰が来るのかが気になるので葬儀式場の外にいる西口会長から少し離れた場所に立っていました。兄弟分の親分の人は必ず西口会長の所に行って何か話しをしてから控室に行くのですが、他の参列者の人は西口会長に会釈をしてから式場に入って行きました。

 

兄弟分の中の1人の親分に西口会長が「この頃年のせいか、俺も涙もろくなったよ」と言うのが聞こえた時に、何とも言えない気持ちになりました。お通夜が始まってから終わるまで西口会長はずっと目をつむっていました。お通夜が終わって熊川さんの家族と、西口会長の奥様とお子さんがお清め所で話しをしていました。僧侶控室に西口会長と西口会長の兄弟分の人達が5~6人入って来たので、僧侶控室の入り口の前に私が誰も入れない様に立っていました。

 

西口会長の奥様とお子さんが帰る時も西口会長は家族の方とは別に1人で車に乗って帰っていきました。葬儀が終わってから1週間くらいしたら、「住吉会」と「稲川会」の手打ちが終了したと「向後睦会」の事務局長から連絡がありました。おそらく熊川会長のお通夜が終わった時に僧侶控室で手打ちの話を西口会長が兄弟分に報告をしていたんだと思いました。そして誰かが「稲川会」に手打ちの件で連絡をしたのでしょう。

 

手打ちの条件を事務局長に聞いたら「大前田一家の名称の抹消、小田総長の絶縁、「稲川会」総本部長の引退」という事でした。私が西口会長が凄い親分だと思ったのは、大前田一家の名称の抹消でした。「大前田栄五郎」と言えば清水次郎長、国定忠治、新門辰五郎と並び称される誰でも知っている博徒の大親分で、その大前田栄五郎の流れをくむ伝統のある一家の名称を抹消させたのですから驚きました。これなら熊川会長も納得が出来ると思いました。

 

しばらくしてから中神社員が私の所に来て「相変わらず「Y」が何の用も無いのに、西口会長の前をうろつくので「Y」に胸のネームプレートを外させて、西口会長に頼んで「Y」と一緒にスナップ写真を写させてもらったら、「Y」が興奮をしていましたよ」と言ってから、「西口会長と一緒に写したスナップ写真を神輿愛好会の皆んなに見せているんだろうなと思うと、「Y」からなんか御馳走をしてもらわなくちゃあ」と笑ながら話しているので、私が「Yも家宝が出来て良かったな」と言っておきました。