これまで何度も書いていますように、私は、DV加害更生プログラムに通っています。《妻さん》と《娘さん》が家から避難したときから通い始めて、一年半以上が経ちました。
 
 通っていく中で、様々な参加者のケースに出会いました。
 プログラムで真摯に学び続け、パートナーや子どもとのより良い関係の構築に向けて新たな一歩を踏み出した方もいます。
 とは言うものの。途中で学ぶことを放棄して、プログラムを去っていく方も、少なからず存在します。(私自身も、すべてを投げ出して旅に出てしまいたい、と思った瞬間がありました。なので、去っていく方の気持ちも分からなくはありません。)
 
 DVについて学ぼうと思って、プログラムの門をたたく。しかし、学び続けることは放棄して、去っていく。こうしたケースが存在するのはどうしてなのでしょうか。DVについて「学ぶこと」と、DVについて「学び続けること」との間には、どのような違いが存在するのでしょうか。
 
 ここ最近、そんなことを考えていたのですが、今読んでいる本に、このことに深く関係しそうな一節を見つけました。
 「沖仲仕の哲学者」(注:「おきなかせ」。港湾労働者のこと。)として知られるエリック・ホッファーの記した一節です。キーワードは、「希望」と「勇気」です。
 
 「自己欺瞞なくして希望はないが、勇気は理性的で、あるがままにものを見る。希望は損なわれやすいが、勇気の寿命は長い。希望に胸を膨らませて困難なことにとりかかるのはたやすいが、それをやり遂げるには勇気がいる。」(中本義彦訳『エリック・ホッファー自伝 構想された真実』(2002年、作品社)52頁)
 

 DV加害更生プログラムの門をたたくのは、「希望」を抱いているからです。
 プログラムに通いさえすれば、パートナーや子どもと「元通りの、(自分にとって)都合の良い」暮らしができると希望を抱くからです。だから、加害更生プログラムで「学ぶ」という、自分にとって「困難」と考えることに、チャレンジしようとするのです。
 
 しかし、参加者の「希望」は、すぐに打ち破られます。
 プログラムに通う中で、参加者は、「元通りの都合の良い」暮らしに戻ることはできないことを学びます。参加者の考える「元通りの都合の良い」暮らしとは、「DVをしていたときの」ということと同義だからです。
 DVをせずに、より良い関係を築く。そのためには、
 ①自らがDVを犯したという事実を認めて反省した上で、
 ②そうした過去の蓄積の上に、パートナーや子どもと、少しでもより良い関係を築こうと、毎日取り組みを積み重ねることが必要なのです。
 
 ちょろっとプログラムで学べば、「元通り」に戻る。そうした性質のものではないのです。
 また、参加者は、プログラムに通うことは、「困難」なことでも何でもなく、むしろ、自らのDVを認め更生していくための、最低条件に過ぎないことも学びます。

 希望に胸を膨らませて加害更生プログラムで「学ぶこと」を始めたが、すぐにその希望は打ち破られます。そのときに、どうするか。
 ここが重要な分かれ道なのです。
 
 自分の希望が打ち砕かれた後も、DVを認め、より良い関係に向けて努力し続ける覚悟があるか、つまり、(単に「学ぶ」だけではなく、)「学び続ける」遂げる覚悟があるかどうかが、問われているのです。(希望ではなく、)やり遂げる「勇気」があるかどうかが、試されているのです。
 
 ここに、DVについて「学ぶこと」と、「学び続けること」との、大きな溝があります。
 希望を持って「学ぶこと」はできます。しかし、自分の希望は、往々にして損なわれます。そのときに、自分が置かれたあるがままを受け入れたうえで、勇気をもって「学び続ける」ことができるかどうか、それが、問われているのです。
 
 「学び続ける」自分で、勇気をもてる自分でありたいと、強く想います。
 (学ばせていただけるということに、感謝しつつ。)