これまで何度もブログで記しているように、私はDVの加害者です。そして、自らが犯したDVと向きあい、自分が犯した罪を償っていきたいと強く想っています。
 
 今回は、私がDVを犯した「罪を償う」ということと、私が「幸せを感じる」ということとの関係について、書いていきます。
 
 DVを犯した人間は、そのことを反省し償うために、一生ずうっと沈痛な面持ちで、不幸でいなければならないのでしょうか。
 
 私は、そうは思いません。
 私はDVを犯しました。そして、《妻さん》や《娘さん》、周りの多くの方々を傷つけました。そのことを私は、本当に申し訳なく思いますし、私は、自らが犯したDVと向きあい続けたいと考えています。
 
 でも、だからといって、DVを犯した私がずうっと「不幸でいなければならない」かというと、そうではないと私は思います。
 たとえDVを犯した私であっても、私は、私です。そして私は私の人生を、幸せを感じて生きていきたいです。
 
 だから、DVを犯した「罪を償う」人は「幸せを感じてはいけない」と言われると、とても哀しい絶望的な気持ちになります。私は、DVを犯した「罪を償う」べき人であっても、「幸せを感じてもいい」のだと信じています。

 しかし。一方で、DVを犯した人が「幸せだけ」を感じていていいのか、というとそうでもないと思います。
 例えばですが、自分の娯楽にお金を使いすぎて、養育費を納めるのが遅れがちになったり、自分の趣味や仕事に没頭して、DVについて学んだり自分自身について振り返る時間を全く持っていないということになると、その人は本当に「罪を償う」つもりがあるのか、心配になります。
 
 もちろん、自分が犯したDVと向きあわず、自らの「幸せだけ」を優先するというのも、一つの人生の選択です。でも、少なくとも私はそういう生き方をしたくないし、もし周りにそういう方がいたら、とても残念に思います。
 
 ではいったい、DVを犯した「罪を償う」ということと、「幸せを感じる」ということの関係について、どう考えればいいのでしょうか。
 
 今の私は、この二つは対立するものではなく、むしろ二つは深くつながっているのだと感じています。
 どういうことか、これから記していきます。
 
 私は、DVを犯した「罪を償う」ということは、(1)自分がDVをしないより良い自分になることであり、また、(2)自らのDVにより傷つけてしまった《妻さん》や《娘さん》の心身の回復と幸せな人生を心から応援することだと考えています。
 
 
 そして、私は今、例えばこんなことに幸せを感じています。
①DVについて学ぶこと
 加害更生プログラムに通ったり、DVに関する本を読んだり、ブログで発信したりする中で、私自身がこれまでどういう考えや価値観を持っていてDVを犯したのか、理解できるようになってきました。
 そして、これまでのDVをもたらす考えや価値観ではない、新たな考え方や価値観を身につけられるようになってきました。より良い人間関係を築くためのコミュニケーションの取り方も、少しずつ意識できるようになってきました。
 私は、DVについての学びを通して、過去の自分自身と向きあい、少しずつでも自分を変えていけていることに幸せを感じ、そしてまた、そうした努力ができることに感謝しています。
 
②新たな自分を発見すること
 DVについての学びと並行して、色んなことに挑戦するようになりました。
 ソロキャンプをしてみたり、一人旅に出てみたり、大学院で新しい分野を勉強してみたり。昔好きだったけれど、最近は「家族のため」と理由を付けて(言い訳をして)やらなくなっていたことを、思いきって再開してみました。
 また、自分がこれまでほとんど興味のなかったことにも、挑戦しています。映画館や美術館に行ってみたり、銭湯巡りをしてみたり、魚をさばいてみたり、自分が作ったことのない料理(唐揚げとか)にチャレンジしてみたり。
 こうやって、自分の好きなことや新たなことに挑戦する中で、これまでの凝り固まった自分とは異なる、新たな自分を発見しています。
 「自分は●●ができるんだ、●●が好きなんだ」
 「意外とやってみたら●●も楽しいかも」
 こうやって、自分の中の新たな可能性を拓くことができることに、新たな自分を発見することに、私は幸せを覚えています。
 
③《妻さん》、《娘さん》とかかわれること、それぞれの人生を応援すること
 面会交流を通じて《娘さん》の育ちにかかわらせていただけること、《妻さん》との手紙のやり取りで、想いを受けとめたり伝えたりできることにも、とても感謝し、幸せを感じています。
 また、養育費を納めさせていただけることにも、感謝しています。経済的な観点から、《妻さん》と一緒に、《娘さん》の育ちに関わらせていただけることは、ありがたいなあと感じています。
 私は、《妻さん》にいいことが、《娘さん》にいいことがあれば、とても嬉しく思いますし、逆に辛いことがあれば、心から同情します。何か私にできることがあれば、いくらでも《妻さん》の、《娘さん》の人生の選択を応援していきたいと考えています。そして、《妻さん》の、《娘さん》の人生を応援できることを、心から幸せに感じています。

 ここまで書いてきた幸せは、私がDVを犯した「罪を償う」ことと考えていること、つまり、(1)自分がDVをしないより良い自分になることであり、また、(2)自らのDVにより傷つけてしまった《妻さん》や《娘さん》の心身の回復と幸せな人生を心から応援することと、ほとんど重なっているように感じます。(幸せの①は(1)に、幸せの③は(2)に対応するものであり、幸せの②は(1)と(2)の両方に関わるのかな、と感じています。)
 
 私は、DVを犯した「罪を償う」ということと、私が「幸せを感じる」ことは、深くつながっていると感じています。
 だから、この二つのどちらか、ではなく、どちらも、選んでいきたいです。