私のDVや虐待が原因で、《妻さん》と《娘さん》は家から避難しました。したがって、現在、私は一人で住んでいます。
 
 私は、住んでいる部屋の壁に、家族の写真を数多くに貼っています。
 《妻さん》と出逢ってから、2人が家から避難するまでの家族の記録です。保存していたデータを現像し、模造紙に貼り、コメントを書いて飾ってあります。全部で、模造紙5、6枚分になりました。壁のほとんどが、模造紙を貼った写真で埋め尽くされています。
 
 毎日、写真に囲まれて暮らしています。そして、写真の中の《妻さん》と《娘さん》は、いつも笑っています。
 物理的には離れていますが、同じ空間を共有させていただいているような、そんな幸せな感覚を覚えます。
 
 私が、DVや虐待をしないで、より良い人間関係を築けるために、変わる努力を続けるのは何のため?
 
 写真の中の《妻さん》と《娘さん》は、その答えをいつも、思い出させてくれています。(ありがとうございます。)
 
 
 さて。
 写真を毎日見ていく中で、気づいたことがあります。
 
 《妻さん》と出逢ったとき、《娘さん》が生まれてくれたとき、《娘さん》がとても小さい時。そうしたときの写真は、数多くの写真があります。《妻さん》の笑顔も、屈託のない、太陽のような笑顔です。
 
 けれど。《娘さん》が大きいときの写真は、そこまで多くの数がありません。また、飾ってある写真も、《妻さん》の笑顔には、何となく陰があるようにも見えます。そして、家から避難する直前の写真は、その陰が濃くなっているようにも感じられます。
 
 私が、私のDVや虐待が、家の中から笑顔を減らしていました。笑顔の出せない家庭にしていました。心から笑えない、家庭にしていました。
 
 最後に《妻さん》が、《娘さん》が心から笑ったのは、いつでしょうか。今、《妻さん》は、《娘さん》は、心から笑顔でいられるでしょうか。
 
 そう想いをめぐらせると、とても申し訳なく、そしてせつなく思うのです。
 
 笑顔の写真がもたらすのは、幸せな記憶ばかりではありません。
 家に飾る笑顔の写真は、私がDVや虐待を犯したという事実を、決して忘れないための十字架でもあるのです。