せきれい 庄野潤三
庄野潤三の私小説的小説
淡々と毎日が映し出されていく。変わったことは何もない。
庭の水盤につぐみや四十雀が来ると喜び、むくどりが来ると苦々しく思う。
庭の侘助が咲き、ブルームーンが咲き、それらは作者の机や妻のピアノに活けられる。
(ちなみに小生の大学受験時のZ会でのペンネームは「侘助」だった)
結婚している長女から手紙が来て、妻が読み上げる。近くに住む長男・次男の家にいただきものをおすそ分けしたり、されたりする。
ご近所様とも同じように交流し、料理やお菓子を作って喜ばれ、いただいて、喜ぶ。
夜寝る前にハモニカを吹き、同じ曲をほぼ毎日繰り返し、それを聞いて、あわせて妻が歌を歌い、終わると鶯になったような気分になり、そのまねをする。
そんな描写が何度も何度も繰り返され、同じような背景説明も繰り返される。そして、それは間違いなく意図的におこなわれているのだと思う。
作者はそれが大事だと思っている。何よりも大事だと思っている。社会や国家や世界などというものよりも、その毎日の繰り返しが大事だと思っており、そこに点在するちょっとした非日常(宝塚を見に行くことや、年に二回の大阪への墓参り、年に一回の穴八幡神社へのお参りなど)を何よりも喜び、楽しむ。
その非日常でも、観劇の後寄る甘味屋や、大阪で泊まるホテル(フロアまで!)、夕食のお店・メニューというようなものもいつも同じものが選ばれている。たまにそれが無くて違うものを選ぶことを余儀なくされることもあるが、それが意外とよかったりすると、例えば食事だったりすると、「おいしい」と簡潔に表現されて、次回もそれが選ばれたりする。
英語もでき、アメリカに海外留学もし、作品のために渡英もしたりした作者が、最終的(本書刊行時77歳)にこのような生活を選んだということに、とても心打たれる。
そして現代だからこそ、意味のある本だと思う。すべての人がこの選択をするべきというわけではないが、意思を持ってこの選択をする意味はある。そこにも間違いのない幸せがある。人と分けることができる幸せが。
★★★★半