父の死を通して思うこと④ | ぽんこたつ欲しいみかんの毎日気分は凸凹~生きてるからこそ~

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母の介護、父の死をきっかけに2016年にうつ病になったことから、転職を繰り返し、仕事社会から離れて今は生活保護で暮らしています。家族のこと、日常の出来事、病気やメンタル、伝えたいことや空想、情報など思うまま綴るまとまりのないブログです。

(続き)

母には苦しいながら何とかごまかし、引き続き施設に居てもらうことになりました。

一度出てしまうと、もしまた入所をお願いしてもそうそう入れないという話を聞いていたので、それを一番の理由にしました。

父は、二週間程家で一人で過ごし、通院で検査を受けました。大きな変化は見られないということでした。

「母さんには申し訳ないけど、少しの間一人で休ませてもらうよ」
自分もそのほうがいいと思っていました。

しかし……

母は父の状況がよくわからない、寂しい、同室の人が夜中うるさくて寝れない…などと色々重なり、施設の人に相談して、部屋を替えてもらうことになりました。

部屋を替えてもらい、解決したかのように思えましたが、母は不眠気味の状態が続き、体調が少し悪くなってしまいました。

少ししてから母に会いに行った時。

「家に帰りたい…お父さんに会いたい。」と一言。

我慢の限界だったのでしょう。涙をこらえようとしてもどうにもできない感じでした。

父も自分も心配で…嘘をつくのも限界でした。

近々父が退院するという事にして、母を施設から出してもらうことになりました。

父の二度目の入院が決まってからのことでした。


母の退所時には、父が迎えに行きました。

1ヶ月ぶりの再会でした。


翌日。
今後の事を話し合うために自分は会社を休み、朝早く家に帰りました。

父も母も少しやせていました。

父は治療の経過やもうすぐ二度目の入院をすることなどを母に話しました。

母は施設に居るのがとても寂しくて辛かった、もう二度とあんな所には入りたくない……と泣きながら話しました。

「俺はもう母さんの事、ちゃんと見てやれるかわからないんだよ。これからも何回も入院しなくちゃならないし。
その度母さんの事どうしたらいいのか……」と父。

「私はまたお父さんと一緒に暮らせることを信じて、ここで待ってるから。
出掛けなければいいんだから、何とか一人で頑張る。
お願いだから、もう施設には入れないで。」と母。

自分は両親のやり取りを黙って見守ることしかできませんでした………。

お互い思いやって、心配しあっているのに。

現実は厳しすぎる……。


自分は今すぐ仕事を辞めて、両親のために動くべきではないか……。
しかし、派遣契約を3ヶ月先までしていて、今更変更などできない。
どうしたらいいのか……。


自分の考えを話すと、両親は揃って反対しました。

これ以上迷惑はかけられない… と。


結局、母を施設に入れるということはやめ、今後は父の入院中でも家に居ることになりました。

心配がまた増えました。


自分は見守るしかできない。

なんて無力なんだろう……。

でも、出来る限り両親の間で役目を果たさなければ。

父の治療がうまくいけば、きっと二人でまた暮らせる…。
そう言い聞かせて。


そして、父の二度目の入院。

一度目と同じように抗がん剤と痛み止めの治療を受けました。

今度は一週間での退院。

抗がん剤の副作用なのか、貧血やめまいがひどく、体力低下も見られるようになっていました。


母の介護や面倒はほどほどに、時々自分も手伝い、何とか自宅での生活をしていました。

その間に自分も治療中の病気の定期検査を受けに行きました。

結果は何とか現状維持でしたが、医師から無理しすぎないように。と注意を受けました。

でも、両親はそれどころではない。

本当に自分しかいないのだ。

疲れを隠して、両親の前ではできるだけ笑顔でいました。


二度目の退院から約1ヶ月後、父 三度目の入院。
今度も約一週間後に退院。

その後の通院での検査では、肝臓の腫瘍が少し小さくなっているという医師からの話が。

父も自分もひと安心しました。

その後の予定は、5月の連休があるため、連休後にまた通院での検査、入院の日程を決めることになりました。

きっと、このまま良くなるよね。

少し、希望を持てるようになりました。

父もそうであると思っていました。

久々に父と子の間でホンモノの笑顔をかわせました。

少なくても、自分はそう思っていました。




(続く)