【2022年10月13日(木曜日)】※六泊七日、中山道六十九次めぐりの旅!5日目
【信濃追分駅】(左折1.2km)
【軽井沢追分】(国道18号線)
【追分宿】は、次の交差点を右折!

追分宿(おいわけしゅく)は、中山道六十九次のうち江戸から数えて二十番目の宿場町。

追分宿

現在の長野県北佐久郡軽井沢町追分にあたる。北国街道(北陸道)との分岐点でもあり「追分」の名はこれに由来する。元禄時代には旅籠屋71軒、茶屋18軒、商店28軒を数え、飯盛女も最盛期には200~270人もいたとされるほど栄えた。また、民謡に多く見られる追分節の発祥の地である。旧脇本陣の油屋は、堀辰雄や立原道造、室生犀星らに愛され、堀辰雄の小説『菜穂子』、『ふるさとびと』に登場する牡丹屋という旅館はこの油屋がモデルである。

特徴編集

木曽海道六十九次 追分(渓斎英泉画)
焼失する前の『油屋旅館』

天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、追分宿の宿内家数は103軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠35軒で宿内人口は712人であった。また御影陣屋支配下の貫目改所が設置された。

【追分郷土資料館】は、右折!
【】
【追分宿郷土資料館】へ、到着!

【馬頭観世音】







【常夜灯】



【旧中山道】
【旧中山道】
【追分公園】
【常夜灯】


【宿場町】に、入った感じだねっ!
【堀辰雄文学記念館】

堀 辰雄(ほり たつお、1904年(明治37年)12月28日- 1953年(昭和28年)5月28日は、日本の小説家。

堀 辰雄
(ほり たつお)
Photo-1935-HoriTatsuo.png
巻頭グラビア「作家訪問」
(『若草』1935年7月号)30歳当時

それまで私小説的となっていた日本の小説の流れの中に、意識的にフィクションによる「作りもの」としてのロマン(西洋流の小説)という文学形式を確立しようとした。フランス文学の心理主義を積極的に取り入れ、日本の古典や王朝女流文学にも新しい生命を見出し、それらを融合させることによって独自の文学世界を創造した。肺結核を病み、長野県軽井沢に度々療養、そこを舞台にした作品を多く残し、晩年には終の住処とした。

戦時下の不安な時代に、時流に安易に迎合しない堀の作風は、後進の世代の立原道造中村真一郎、、福永武彦、丸岡明などから支持され、彼らは堀の弟子のような存在として知られている。戦争末期からは結核の症状が悪化し、戦後はほとんど作品の発表もできず、闘病生活を送り48歳で死去した。


本日は、【休館日】








【追分宿高札場】

【浅間山道路】




もう、【追分宿】交差点に来てしまったから、Uターン!



ここか!、【本陣跡】は?
これは、見過ごしてしまうわっ!
【土屋勝】と表札は、あるんだねっ!
【明治天皇追分行在所】



【脇本陣跡】かな?
またまた、【追分宿】交差点!

【追分】らしい、道だねっ!(右は北国街道て、左が中山道の分岐点)
【分去れの道標】(わかされのみちしるべ)




【常夜灯】



【追分宿の分去れ】を、あとにする!


中山道六十九次、21番目の宿場町【小田井宿】へ、続く!



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