- 笠取峠(かさどりとうげ) -長野県北佐久郡立科町 と長野県小県郡長和町との境にある、旧中山道および国道142号の峠。標高は900m。芦田宿と長久保宿の間にあり、旅人が上り坂で暑さと疲れのあまり、皆いつの間にか笠を取っていることから笠取峠と呼ばれるようになったと伝えられる。松並木が残り往時の面影を留めている。
長野県指定天然記念物
徳川秀忠は、慶長九年(1604)諸街道の改修、一里塚の設置とともに街道に樹木を植えさせて並木をつくらせた
この幕府の植樹政策によって街道の並木は全国的な広がりをみせ、松・杉のほかに樫・榎・漆などが植えられた。特に箱根や日光の並木は、「昼尚暗き」杉の並木として広く知られている。
笠取峠のマツ並木は、近世五街道の一つ中山道芦田宿の西方1キロメートル地点から笠取峠にかけて約2キロメートルにわたっている。言い伝えでは慶長七年頃、公儀より赤松苗753本を小諸藩に下付され、近隣の村へ人足が割り当てられ小苗を植え付けたとされ、幕末まで手入れ・補植等管理されていた。現在、松の総本数はおよそ150本で、その内、約60本の松の樹齢は150~300年以上経たものである。その景観は往時の中山道をしのばせてくれるみごとなものである。
立科町では平成五年に、「松並木公園」として整備し松の保護に努めています。
長久保宿(ながくぼしゅく)は、中山道六十九次のうち江戸から数えて27番目の宿場。元々は長窪宿と表記していた。
概要
現在の長野県小県群長和町長久保。共に難所であった和田峠と笠取峠との間にあって、最盛期には旅籠が50軒近くある比較的大きな宿場であった。宿場の発展と共に町並みが横丁の先に広がり、カギ型に曲がった珍しい形の宿場町となった。
本来の表記は長窪郷に含まれる「長窪」であったが、宿で生活する人々が「窪」の字を敬遠し、久しく保つの意味の「久保」に縁起をかついだらしい。安政6年(1859年)には宿方から代官所へ宿名変更の願書すら出されたが、許可はされなかったようである。そのため、以降も公文書には「長窪宿」と記されていたが、明治になりようやく認められた。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、長久保宿の宿内家数は187軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠43軒で宿内人口は721人であった。