【2021年2月27日(土曜日)】『東海道五十三次めぐり』と、『関東高校野球強豪校めぐり』と、『NHK大河ドラマ「青天を衝け」めぐり』※6日目

これ以上は、行き止まりだった!。『グーグル検索』も、いい加減だなっ!

『誠之堂』&『清風亭』へ、到着!(犬山出発から584.2Km6日目10.7Km)7:40〜7:53




誠之堂は、大正5年(1916)、渋沢栄一の喜寿(77歳)を祝って第一銀行の行員たちの出資により建築されました。

 渋沢栄一は、深谷市に生まれ、株式会社組織による企業の創設・育成に力を入れ、日本の近代経済社会の基礎を築きました。その拠点としたのが第一国立銀行でしたが、明治29年、同行は第一銀行となり、栄一は、その初代頭取を務めました。
 栄一は、喜寿を迎えるのを機に、第一銀行頭取を辞任しましたが、同行の行員たちが出資を募って誠之堂を建築したことには、栄一が行員たちから深く敬愛されていたことが伺われます。

 平成15年5月30日、国の重要文化財に指定されました。

「誠之堂」の名前の由来

 「誠之堂」の名は、渋沢栄一自身により命名されました。
 儒教の代表的な経典のひとつ「中庸」の一節「誠者天之道也、誠之者人之道也(誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり)」にちなんだものです。

建物の概要

 煉瓦造平屋建、建築面積112平方メートル。外観は英国農家に範をとりながらも、室内外の装飾に、中国、朝鮮、日本など東洋的な意匠を取り入れるなど、様々な要素が盛り込まれ、それらがバランスよくまとめられています。

 設計者は、当時の建築界の第一人者であった田辺淳吉です。
 誠之堂の設計発注に当たって、次の条件が出されました。

  1. 西洋風の田舎屋
  2. 田舎の家らしく
  3. 建坪は、30坪前後
  4. 小集会に適する程度の設備

田辺は、この条件を守りつつ、独自の発想を凝縮してこの建物を造り上げました。



清風亭は、大正15年(1926)に、当時第一銀行頭取であった佐々木勇之助の古希(70歳)を記念して、清和園内に誠之堂と並べて建てられました。
 建築資金は、誠之堂と同じくすべて第一銀行行員たちの出資によるものでした。

 栄一が「謙徳に富んだかた」と評した佐々木は、当初、自身の古希を記念する建物の建設を辞退しようとしたそうです。目立つことを好まない質実な性格をしのばせる逸話ですが、そうした佐々木も栄一と同じく行員たちから強く慕われていたことが伺われます。

 平成16年3月23日、埼玉県指定有形文化財に指定されました。

「清風亭」の名前

 清風亭は、当初、佐々木の雅号をとって「茗香記念館」等と呼ばれていましたが、後に「清風亭」と呼ばれるようになりました。
 設計時点の資料が残されていますが、これには「清和園記念館」のほか「清風亭」という名称がすでに見られることから、この名称は、設計当初において考えられていたものと考えられます。

建物の概要

 建築面積168平方メートルで、鉄筋コンクリート造平屋建。
 外壁は、人造石掻落し仕上げの白壁で、対称的に黒いスクラッチタイルと鼻黒煉瓦がアクセントをつけています。

 設計者は、銀行建築の第一人者の西村好時です。
 屋根のスパニッシュ瓦、ベランダの5連アーチ、出窓のステンドグラスや円柱装飾など、西村自身が「南欧田園趣味」と記述している当時流行していたスペイン風の様式が採られています。

 大正12年の関東大震災を契機に、日本の洋建築の構造は、煉瓦造から鉄筋コンクリート造へと主流が代わりましたが、清風亭は鉄筋コンクリート造の初期の建築物としても建築史上貴重なものといえます。





























『尾高惇忠生家』へ、到着!(犬山出発から585.8Km6日目12.3Km)7:58〜8:13

























【尾高惇忠さん家でハプニング!】


設定としては、『尾高さん家』の扉は、開かないはずであったが、どうゆう訳か開いてしまい、予定が狂い慌ててしまう、モンスターさん!w











【セブン-イレブン】血洗島店で、朝食パンを!




#東海道五十三次めぐり#高校野球強豪校めぐり#センバツ出場校めぐり#NHK大河ドラマ#青天を衝けめぐり#埼玉県深谷市#誠之堂#清風亭#渋沢栄一喜寿の記念#尾高惇忠の生家#旧尾高家長屋跡#深谷市指定史跡#セブンイレブン深谷血洗島店#