子どもの頃に飼っていた、犬の名前が出て来ない。さんざん考え、思い出そうとするのだが、「チェリー」という名が邪魔をして、糸口がなくなった。
 これ、数日前から。
 ところが、今朝、なんのきっかけもないままに「ルル」という名がやっと出た。

 子どもの頃に飼ったといっても、世話は一切母任せ。近所の犬が子どもを産んでそれを貰い受けたのだ。弟が産まれる前にはもう我が家にいたと思う。
 ルルは母を除いて他の家族には全く関心を示さなかった。母への愛はとこんで、当時は犬をつないで飼うなんてこともしないから、家から母の姿が消えると、八百屋、魚屋、肉屋と順に探してまわるのだ。
 それで母は八百屋や魚屋のおばさん、おじさんから「ルルが探しにきていたよ」と声をかけられる。母の姿が見えるまで、小さな町を行きつ戻りつ。
 ルルはスピッツの雄。スピッツは当時飼い犬として流行していた。母親のほうは雑貨屋の飼い犬でこちらは毛並みはいまひとつというのに、ルルは洗ってやると見事な純白でなかなか高貴な顔立ちだった。スピッツは無駄鳴きが多いと言われていたが、案外おとなしい質でもあった。尤も私が、物心ついた頃には、もう中年にさしかかっていたのかも知れない。ただし、私たち子どものことは見下していた風がある。我が身を含んだ家族の順位の一番したに位置づけていたようだ。
 母は随分とかわいがった。私は幼い時分から母さえいればいい、というようなところがあって、情けないかな、犬に嫉妬していたくらい。

 私が高校に入るとき、我が家の事情でルルを手放すことになった。もう老齢の身をよそにやるのは母とてさぞかし辛かったことだろう。
 母は強情だったが、ルルを抱きしめて泣いていた。
 
 この頃、しきりと母の夢を見る。きっとルルがそばにいる。