今日、読んだ本。
 「自分自身への審問」(辺見 庸/毎日新聞社)
 「神の子どもたちはみな踊る」(村上春樹/新潮社)

 「自分自身への審問」は、読み始めてすぐ気づいた。うちにあるはず。そう、同じ本の二度買い。よくやるなあ。呆れてしまう。まあ、縁だと思って読んで行く。
 案の定、本棚で鎮座しているもう一冊を見つけた。しかもあちこちに付箋までつけているではないか。これは、いつ読んだのか。2006年の刊行だから、そう古いことではない。
 頭が南下、ならしも、軟化しているようだ。私はなぜか、彼の名前に過剰反応するらしい。初めて呼んだのは「自動起床機」で「もの食う人々」もよかったが「ハノイ挽歌」にひどく惹かれた。これは何度も読み返した。

 息子が高校に入ったとき授業前に「読書タイム」というのがあって、なんでもいいから本を持参して読んでいくというもの。「なにか適当に選んでよ」。そう言われて渡したのが、「もの食う人々」。「ちょっと難しい」そう言われたが、これはいい機会だからと様々、用意した。まあ、私の偏向的な趣味で。
 難しいと言いながら、当時、本にまるで振り向かなかった息子が本棚を物色するようになった。
 そのうち茶目っ気が出て、「タオ」だの「カントなら・・・」なんて本を持っていくようになった。先生は驚いたらしい。「おまえの趣味はなかなか渋いな」。
 時折、先生から「その本、あとで貸してもらえないか」などと言われるようになった。
 まじめに読んでいなかった、かやつ、読後感でも聞かれるのではないかと、内心あわてていた。

 それでも、なんとか読書というものに興味を覚え、自分で本を買うようになった。ところがだ、新刊本は別にして、結構重なっているのだ。なにせ、やってる音楽が60年代~80年代だから、選んでくる本も、渋いと言えば渋い。事前に言ってくれば、無駄な出費も省けように。本当は、もっと難解なものに挑戦してもらいたい。理解できなくてもいい。訳がわからなくてもいい。それでも最後まで読めば、いつかなにかしらのものになる、そう信じることだ。そんなふうに、若い頃の私は本を読んだ。押し付けてはならないと自戒しつつも。
 ただ、本を読む事が、ある種の「知的作業」であるとは思ってほしくはない。楽しむことこそ優先で、難解な本を最後まで読むということも自虐的ながら?楽しみにつながる。
 加えて、望む望まずに関わらず、年齢というものは重ねていくものだから、その過程、過程で「腑に落ちる」ということを経験する。
 あるいは文学は虚構のうちにある。
 とまれ、虚構が現実を凌駕することもありうる。私たちは、そのようにしか生きていけないのかも知れない。
 
 素晴らしいかな。チェリーは本など読まなくても、、なんでも知っている。