以下、引用。「大悲 風の如く」(紀野一義・ちくま文庫)より。
大悲は風のごとくに来る。
われわれの気づかぬところから微風のごとく吹き起こり、空を渡り、いつのまにかわれわれを包む。はじめその音は空しくきこえることもあろう。
しかし、いつか、人は空しさの奥に大悲が輝いていることを知る。流した涙がまことの涙であり、悲しみが純粋に深いものであれば、泣くということが泣くだけに終わることはない。
自分がないたことを、自分が流した涙を、もっとなにか、生きることに役立たせたいと願うようになる。
その願いが動いてきたときに、空しいと思った風の音の中に、仏の大悲が動いていると知るようになる。
涙がかれるほどに泣いたことが無駄にならなくなる。
慰め・・・と言っていいのだろうか。
いや、確かに慰めだ。
溺れるのではないか・・・と思うほど泣いたことがある。そのとき、思った。ここからなにかが始まらなければ、申し訳ないと。
誰に対して? 亡くなった人に。悲しみを支えてくれる人に。ともに泣いてくれる人に。そばにいる人に。愛して育ててくれた人に。きっと遠くでつながっている人に。
なにが始まったか・・・は定かではない。ただそう感じる、ということが大切だったのかと思ってみたりもする。
・・・だけど、私、そこから人間ができた、というわけではありません。誤解のなきよう。