友人の亡くなったおとうさまのものだったという「山頭火全集(春陽堂)」(全7巻のうちの4巻)。去年の暮の大掃除のおり、処分しようかどうしようかと迷っていると言うので「もったいない」と借り受けた。
借り受けたものの、放置していたが・・・昨日の朝日新聞の文芸欄が「今こそ種田山頭火」。あ、金子兜太だ・・・。そんなことで読み始めた。
「山頭火の俳句や日記、書簡類は、共感と嫌悪のさなかで読まれるに違いない。しかし、その凡俗漂泊の有態は、いたずらな合理追及に吸血されて蒼白になりつつある現代の人間関係―――そこに漂うわたしたちの心底に鋭く突き刺さってくるのである」。
これは全集第3巻に寄せられた兜太の言葉。現代って、昭和47年。
「執着が残って本当の世捨て人になれず、かといって世間となじむ努力もしない。迷ってうろうろしている弱者の典型」「ただ、弱さを隠さない、強がらない。後悔しながらもありのままをさらけだし、書き綴った。自らは弱い状態で世の中をせせら笑い、そういう形で社会に抵抗した。徹底した弱さは強さでもある」こちら、昨日の朝日新聞。同じく金子兜太。
悲しいし、寂しいけれど、どこかおおらかでもあり、自分を開いている・・・放っているか? それが日記の印象。これが強がらないということかも。尾崎方哉より・・・なんというのだろう、からりとしている。辛いは辛かろう。それでもどこか、楽観を感じさせる。あるいは他力。諦観には、楽観の臭いがするのかも知れない。
9歳の子供が目前で、母の自死に遭遇する(山頭火)とは・・・と思いつつ。
二度生まれ、という言葉がある。言語に絶する壮絶な、悲惨なできごとに遭遇し、新しく生まれかわるしかない、そんな人間のこと。
難儀だな、ということがあった。私の人生のこと。すさまじくはあったが、でも、それが筆舌に尽くしがたいものかどうか・・・いや、そうは思えない。もっともっとの悲惨はこの世に山ほどあるだろう。
でも、それは慰めではない。むしろ、それは気の重いものとしてある。
山頭火の救いは、二度生まれ、の運命も、あの短い言葉でときどきに決別していくところにあるような・・・そんな気がする。
借り受けたものの、放置していたが・・・昨日の朝日新聞の文芸欄が「今こそ種田山頭火」。あ、金子兜太だ・・・。そんなことで読み始めた。
「山頭火の俳句や日記、書簡類は、共感と嫌悪のさなかで読まれるに違いない。しかし、その凡俗漂泊の有態は、いたずらな合理追及に吸血されて蒼白になりつつある現代の人間関係―――そこに漂うわたしたちの心底に鋭く突き刺さってくるのである」。
これは全集第3巻に寄せられた兜太の言葉。現代って、昭和47年。
「執着が残って本当の世捨て人になれず、かといって世間となじむ努力もしない。迷ってうろうろしている弱者の典型」「ただ、弱さを隠さない、強がらない。後悔しながらもありのままをさらけだし、書き綴った。自らは弱い状態で世の中をせせら笑い、そういう形で社会に抵抗した。徹底した弱さは強さでもある」こちら、昨日の朝日新聞。同じく金子兜太。
悲しいし、寂しいけれど、どこかおおらかでもあり、自分を開いている・・・放っているか? それが日記の印象。これが強がらないということかも。尾崎方哉より・・・なんというのだろう、からりとしている。辛いは辛かろう。それでもどこか、楽観を感じさせる。あるいは他力。諦観には、楽観の臭いがするのかも知れない。
9歳の子供が目前で、母の自死に遭遇する(山頭火)とは・・・と思いつつ。
二度生まれ、という言葉がある。言語に絶する壮絶な、悲惨なできごとに遭遇し、新しく生まれかわるしかない、そんな人間のこと。
難儀だな、ということがあった。私の人生のこと。すさまじくはあったが、でも、それが筆舌に尽くしがたいものかどうか・・・いや、そうは思えない。もっともっとの悲惨はこの世に山ほどあるだろう。
でも、それは慰めではない。むしろ、それは気の重いものとしてある。
山頭火の救いは、二度生まれ、の運命も、あの短い言葉でときどきに決別していくところにあるような・・・そんな気がする。