おはよう。

 近頃は着るものが安くなった。
 安売りチェーンのお陰で、嘘のような値段で手に入る。ちょっと前までは粗悪なものと思われていた中国製や東南アジア製も縫製がよくなり、ちょっとしたブランド物ですら、メイドインチャイナなどと記されていたりする。リサイクルショップもなかなか盛況ぶりの様子。
 その上、前倒し、前倒しで年から年中、どこかでバーゲンをやっている。
 そのせいかお金のないはずの学生たちも、気楽にオシャレを楽しんでいる。色や丈やデザインをうまく組み合わせた重ね着など、とうてい真似の出来ないような上級テクニックだと、街ゆく若者を眺めては感心しきり。私が学生の頃には、ジーンズにTシャツ、あるいはトレーナーなどが定番で、それはそれなりに配色などには気を配ったが、”決めた”格好は目立ったものだ。

 昔はスーパーなどが衣料品を扱うというようなことはなかった(と思う)。
 野菜を八百屋で、魚を魚屋で買うように、着るものは衣料品店で買うのが当たり前であった。生地を選んで仕立ててもらうのも、今のようにぜいたくというのではなく、普通のことだったと思う。なにせ、着るもの自体がそんなに安いものではないのだから、夏物、冬物、合物と、季節の買い物なのである。

 子供の頃は、ほとんどが母のお手製だった。メジャーを持った母が私を呼ぶと、ああ洋服をこしらえてくれるんだとワクワクしたものだ。型紙を抜く頃には、なにを作ってくれるのかがおぼろげに分かり、もう待ち遠しくてたまらない。それも、母とのそろいだったりすると有頂天である。余り生地が上履き袋や小物入れになるのも楽しみのひとつ。
 私は、ちょっとお姉さんらしいワンピースやジャンパースカートを作ってもらっては得意になり、弟は膝小僧にお化けのQ太郎のアップリケを施した長ズボンに大喜びだった。
 セーターを編んでもくれた。当時は、ジャノメやシンガーといった編み機が流行したようで、どこの家に行っても編み機があった。
 秋になった頃から誰かの家にそれを持ち寄って、近所の奥さんがたと一緒にひがな一日編み物・・・。ジャージャーという音とともに、編まれた部分から下に垂れていく。平安な音だった。
 母と一緒に毛糸を選びに行くのも嬉しかった。色も太さもまちまちの中から、「どれがいい?」と聞かれると、心が浮き立った。
 古くなったセーターや小さくなったセーターはほどいて新しいセーターに生まれ変わった。ストーブの横で母がほどく毛糸を両手の首に巻き取って行く。それとも、最初は玉にして、その後でヤカンの蒸気に当ててちりちりになった糸をまっすぐに伸ばしたのだったか。途中でもつれたり、トイレで中断したり、なかなかスムーズに進行しないが、慌てる作業でもないこの手仕事も、また平安な一時だった。

 母は大層なお金をかける余裕などなかったが、オシャレだった。特に、父とケンカすると決まって私を連れて近くの店に出かけ、生地を丹念に選んでは洋服を誂えた。私は父と母の諍いが怖かったが、徐々に母の顔つきが穏やかになっていくのに胸をなでおろしたものだ。そうやって、ケンカの度に、コートやスーツが新調された。

 注文したものが出来上がってくると、母は夜に姿見の前に立って、ひとりでファッションショーを開いた。次々と、手持ちのブラウスやスカートに新しい洋服を合わせて行く。観客は私の役目である。
 気の向くままにいつ終わるともないファッションショーに、仕舞には観客のほうが退屈になり、なんでも「合う、合う、ステキだ」といい加減な返事を繰り返す。
 
 あの頃を思うと、家計は決して楽ではなかったはずだ。父は母方の祖父のもとで、安給料でつかわれていたし、農家の娘なのに米に事欠くことすらあった。母の母はそういうことに気の回らない人だった。加えて、母は非常な意地っ張りで、泣きつくことを頑に拒んでもいた。

 母はいつも丁寧に化粧をし、出かける前には必ず口紅を引き直す人だったが、私ときたら、口紅とも無縁である。服装のほうもさほどこだわりや頓着がない。ましてや、夜のファッションショーなど一度も経験したことはないのだ。

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