久しぶりに、父の夢を見た。
父が亡くなったのは、平成14年、5月のことである。入院したのが前年の10月、厳しい残暑もあせた頃だった。
そのだいぶ前から失禁を繰り返するようになっていた。しかし、元来が病院嫌いである上に、乏しい知識で原因を前立腺と決めつけ、前立腺は簡単な手術で治るのだからと言い張って、医者にかかるのを一日延ばしにしていた。後から思えば、その頑なさは、漠然とした死への恐れではなかったか。
それが俄に、検査を受けるつもりになったのは、自分でも抗えないほど状態がひどくなったからである。
高速道路で一時間ほどの距離を郷里の総合病院まで駆けつけると、待合室に父がしょんぼりと座っていた。入院の手続きを待っているという。即刻の入院であった。
母が亡くなってすぐ、弟は転任願いを出して郷里に移ってきた。父の様子をみてくれるためである。とはいえ、父はまだ70歳前で、十分自律して生活出来る年齢であった。
入院した翌日には、私と弟は父に内緒で主治医に呼ばれた。それは病状の説明というより、「早ければあと二ヶ月か、三ヶ月でしょう」という余命の宣告であった。
正月が越せないかも知れない。そう思うと、愕然とした。
父の病気は本人が考えていたような、前立腺ではなく、肝臓も腎臓もすでに機能不全な状態で、糖尿病もあった。様々な検査数値を指し示されたが、どれも「異常値」であるという。
それでも、薬が功を奏したのか、生きることへの本能的な執念か、年内は病気をやり過ごすようにして乗り切り、なんとか新年を迎えることができたのである。
ところが正月も過ぎると、父の病気はまるで火を噴くように暴れ出した。みるみるうちにやせ細っていき、苦行僧のような枯れた顔つきに変わった。黄疸症状が出て、腹水がたまるようになると、時折息をするのさえも苦しそうになる。仕事帰りに寄る弟を待ちわびて寂しさを訴えることもあったという。
父はだんだんと言葉数が少なくなり、窓からぼんやりと、重く垂れ込めた冬空を眺めるばかりになった。
死期が遠くないことを悟ったのであろう。たびたび見舞いに訪れてくれる叔父夫婦が「花見の頃には元気にうちに帰れるよ」と励ました時、父は落ちくぼんだ眼窩に涙をためて「もうそういう話しはしないでくれ」ときっぱりと言った。
母が亡くなったのが平成10年の1月3日。予期せぬ突然の出来事だった。私たち家族はただ呆然と、その事実を受け入れがたいまま、小雪の舞う中、母を見送った。
半年くらいして、気がつけばいつも母の死の周辺を回る自分に気づき、私は友人である医者を訪ねた。あまりに大きな喪失感に私は押しつぶされそうだった。
「四年辛抱しんさい。四年たっても悲しいことには変わりないが、四年の間に悲しみは変容するから」。
彼はそう言った。四年という年月の根拠はわからないが、それは多分、近しい幼いものを亡くし、無力な自分に打ちのめされた彼自身の経験的な言葉だったと思う。
父は、母の死から後、しばらくは虚勢とも思えるほどに、家事でもなんでもてきぱきとこなした。趣味を見つけるのだと、絵をはじめ、書にもとりくんだ。私たちはスケッチブックや筆や絵の具をそろえては父を訪ねた。
父からはたびたびファックスが届いた。「元気ですか」「元気でいてくれ」「こちらも元気です」。手紙ももらっこともなかったというのに。しかし、それもつかの間のことだった。
父は、正月もなんとか越えて、母が亡くなってからの4年をどうにか生きたのではあるが、4年間のエネルギー配分を間違えたのだろうか。それとも、悲しみが変容する間もなく、力尽きてしまったのだろうか。
「四年」。いまさらながらに、つぶやいてみる。
父が亡くなったのは、平成14年、5月のことである。入院したのが前年の10月、厳しい残暑もあせた頃だった。
そのだいぶ前から失禁を繰り返するようになっていた。しかし、元来が病院嫌いである上に、乏しい知識で原因を前立腺と決めつけ、前立腺は簡単な手術で治るのだからと言い張って、医者にかかるのを一日延ばしにしていた。後から思えば、その頑なさは、漠然とした死への恐れではなかったか。
それが俄に、検査を受けるつもりになったのは、自分でも抗えないほど状態がひどくなったからである。
高速道路で一時間ほどの距離を郷里の総合病院まで駆けつけると、待合室に父がしょんぼりと座っていた。入院の手続きを待っているという。即刻の入院であった。
母が亡くなってすぐ、弟は転任願いを出して郷里に移ってきた。父の様子をみてくれるためである。とはいえ、父はまだ70歳前で、十分自律して生活出来る年齢であった。
入院した翌日には、私と弟は父に内緒で主治医に呼ばれた。それは病状の説明というより、「早ければあと二ヶ月か、三ヶ月でしょう」という余命の宣告であった。
正月が越せないかも知れない。そう思うと、愕然とした。
父の病気は本人が考えていたような、前立腺ではなく、肝臓も腎臓もすでに機能不全な状態で、糖尿病もあった。様々な検査数値を指し示されたが、どれも「異常値」であるという。
それでも、薬が功を奏したのか、生きることへの本能的な執念か、年内は病気をやり過ごすようにして乗り切り、なんとか新年を迎えることができたのである。
ところが正月も過ぎると、父の病気はまるで火を噴くように暴れ出した。みるみるうちにやせ細っていき、苦行僧のような枯れた顔つきに変わった。黄疸症状が出て、腹水がたまるようになると、時折息をするのさえも苦しそうになる。仕事帰りに寄る弟を待ちわびて寂しさを訴えることもあったという。
父はだんだんと言葉数が少なくなり、窓からぼんやりと、重く垂れ込めた冬空を眺めるばかりになった。
死期が遠くないことを悟ったのであろう。たびたび見舞いに訪れてくれる叔父夫婦が「花見の頃には元気にうちに帰れるよ」と励ました時、父は落ちくぼんだ眼窩に涙をためて「もうそういう話しはしないでくれ」ときっぱりと言った。
母が亡くなったのが平成10年の1月3日。予期せぬ突然の出来事だった。私たち家族はただ呆然と、その事実を受け入れがたいまま、小雪の舞う中、母を見送った。
半年くらいして、気がつけばいつも母の死の周辺を回る自分に気づき、私は友人である医者を訪ねた。あまりに大きな喪失感に私は押しつぶされそうだった。
「四年辛抱しんさい。四年たっても悲しいことには変わりないが、四年の間に悲しみは変容するから」。
彼はそう言った。四年という年月の根拠はわからないが、それは多分、近しい幼いものを亡くし、無力な自分に打ちのめされた彼自身の経験的な言葉だったと思う。
父は、母の死から後、しばらくは虚勢とも思えるほどに、家事でもなんでもてきぱきとこなした。趣味を見つけるのだと、絵をはじめ、書にもとりくんだ。私たちはスケッチブックや筆や絵の具をそろえては父を訪ねた。
父からはたびたびファックスが届いた。「元気ですか」「元気でいてくれ」「こちらも元気です」。手紙ももらっこともなかったというのに。しかし、それもつかの間のことだった。
父は、正月もなんとか越えて、母が亡くなってからの4年をどうにか生きたのではあるが、4年間のエネルギー配分を間違えたのだろうか。それとも、悲しみが変容する間もなく、力尽きてしまったのだろうか。
「四年」。いまさらながらに、つぶやいてみる。