鎌倉英也/NHK出版/2001

ノモンハン「事件」。
満州国(中国東北地方)とモンゴル人民共和国(外蒙古)の国境ノモンハンで起こった日ソ両軍の国境紛争「事件」である。
日本は関東軍1万5000名を動員したが、8月ソ連空軍・機械化部隊の反撃によって壊滅的打撃を受けた後、独ソ不可侵条約の締結により停戦。この「事件」で軍部の対ソ開戦論は後退。
モンゴルでは、紛争の起きた地点を流れる川の名をとり,ハルハ川「戦争」と呼ぶ。
日本では「事件」と称され、モンゴルでは「戦争」と呼ばれる。著者がロシアを訪ねても、モンゴルを訪ねても、「ノモンハン」という言葉では、取材が進まない。同じ戦いが「ハルハ川戦争」と呼ばれているからだ。
実際、戦地は、ハルハ川流域の荒野地で行われた。5ドルの価値もない、と言われた荒野。しかし、遊牧民にとってハルハ川流域は、豊かな水をたたえ、平原の続く大切な生活圏であり、満州の農民にとっては、向こうの土地とこちらの土地を隔てる境界線を意味していた。
荒地、生活圏、境界線、ひとつの川を巡っての認識の違い。そして、当時のハルハ川を巡る悲劇的な意味はモンゴルの後盾であるソビエトと満州の後盾である日本との「国家」の力がせめぎあう際であったということだ。
ソビエトが中国と結んで日本を孤立させる戦略上、モンゴルが重要であった。同じ意味において、日本にとってのモンゴルもまた要所であった。
では、ここでいう隠された「戦争」とは? スターリンによって行われた、モンゴルでの徹底的な粛清である。遊牧民を、ソビエト化する過程において、その文化を根こそぎにするために行われた粛正は、ラマ教の僧を中心に、当時のモンゴル人民共和国の人口の30人に一人の割合にのぼる。しかし、私たちの知る「歴史」にこうしたモンゴル人の不当な死、は現れてこない。
満州国(中国東北地方)とモンゴル人民共和国(外蒙古)の国境ノモンハンで起こった日ソ両軍の国境紛争「事件」である。
日本は関東軍1万5000名を動員したが、8月ソ連空軍・機械化部隊の反撃によって壊滅的打撃を受けた後、独ソ不可侵条約の締結により停戦。この「事件」で軍部の対ソ開戦論は後退。
モンゴルでは、紛争の起きた地点を流れる川の名をとり,ハルハ川「戦争」と呼ぶ。
日本では「事件」と称され、モンゴルでは「戦争」と呼ばれる。著者がロシアを訪ねても、モンゴルを訪ねても、「ノモンハン」という言葉では、取材が進まない。同じ戦いが「ハルハ川戦争」と呼ばれているからだ。
実際、戦地は、ハルハ川流域の荒野地で行われた。5ドルの価値もない、と言われた荒野。しかし、遊牧民にとってハルハ川流域は、豊かな水をたたえ、平原の続く大切な生活圏であり、満州の農民にとっては、向こうの土地とこちらの土地を隔てる境界線を意味していた。
荒地、生活圏、境界線、ひとつの川を巡っての認識の違い。そして、当時のハルハ川を巡る悲劇的な意味はモンゴルの後盾であるソビエトと満州の後盾である日本との「国家」の力がせめぎあう際であったということだ。
ソビエトが中国と結んで日本を孤立させる戦略上、モンゴルが重要であった。同じ意味において、日本にとってのモンゴルもまた要所であった。
では、ここでいう隠された「戦争」とは? スターリンによって行われた、モンゴルでの徹底的な粛清である。遊牧民を、ソビエト化する過程において、その文化を根こそぎにするために行われた粛正は、ラマ教の僧を中心に、当時のモンゴル人民共和国の人口の30人に一人の割合にのぼる。しかし、私たちの知る「歴史」にこうしたモンゴル人の不当な死、は現れてこない。
ひるがえって、現代、「国旗・国歌」は公的に決めたということであって、強制はしない、といいつつも、教育現場では「強制」としか呼びようのない、過剰な「指導」が行われている。
自由であるべき生活や思想を強制し制限しようとするこれらの動向に懸念を覚えるのは著者だけではないだろう。
なぜ、司馬遼太郎は昭和を書かなかったか?それは、戦争体験をトラウマとした彼の、「国家というものの奇妙な姿態や、それを狂態へ駆り立てている架空の、それだけに声高に叫び、国民に脅迫を持って臨まなざるをいない思想というもの」への絶望的な虚しさがあったからだという。アジア太平洋戦争の序曲となった「ノモンハン事件」の検証に、学ぶべきことは多い。
自由であるべき生活や思想を強制し制限しようとするこれらの動向に懸念を覚えるのは著者だけではないだろう。
なぜ、司馬遼太郎は昭和を書かなかったか?それは、戦争体験をトラウマとした彼の、「国家というものの奇妙な姿態や、それを狂態へ駆り立てている架空の、それだけに声高に叫び、国民に脅迫を持って臨まなざるをいない思想というもの」への絶望的な虚しさがあったからだという。アジア太平洋戦争の序曲となった「ノモンハン事件」の検証に、学ぶべきことは多い。