宗 左近  新潮社

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 『内容』に対置するのが『形式』であるとして、では『様式』とは時空によって決定されるのではないか、と長くお茶をやってる友人が言う。つまり、様式は、時代や環境、風土によって決定される、表現の文化である、と。

 縄文土器と弥生土器。それぞれが時空を映す様式美を持つのだろうが、縄文土器の内包する炎は芸術家を魅了する力がみなぎっている。著者もまた、縄文狂を自認するひとりである。宗 左近は詩人。縄文狂として、また宮沢賢治への傾倒で知られる。谷川 雁との親交もつとに有名。
 
 本書には数々の縄文土器の写真に添えて、著者の選んだいくつかの俳句が紹介されている。粘土の造形美に込められた魂に呼応するように、魂の底から発せられた言葉の造形が時空を越えてここにつながる。縄文の愛の神を感受できる俳人たちの魂のうた、である。
 たとえば、波打つ起伏を持つ縄文中期の深鉢に添えられた仙田洋子の句。

     「夏空の一滴蒼く氷河透く」

 縄文とは何か、著者の言葉で「縄文とはゴッホの自画像と同じ。つまり芸術です」。では、芸術とは?「物質を使っての非物質である魂の表現です」。
 ゴッホの自画像に描かれているのは、ゴッホという画家の顔であるだけでなく、裏側の魂、あるいは神性とも言え、宇宙の原質とも言えるもの。それが見るものの神性を捕らえて感動を引き起こすのであり、そのとき、見るものは、また見られるものとなる。いのちの集積、いのちの呼応、大いなる愛とも言えるだろう。 
 では次に、物語とは何か。魂の劇。縄文物語、とは縄文人が造形に宿らせた魂の劇であり、そこには愛の神に抱かれて暮らしていた私たちの祖先のいのちいが息づいているのだ。

 戦争で4人の親友を「殺された」著者。
 生き残った彼の中には、人と人が殺し合わない世の中を、という祈りが届かないまま死んでいった彼らの魂がいまも荒ぶれて生きているという。そして、死者たちが「絶対の美」、として夢見たものが、縄文にあることを、死者の魂によって知らされたのだと続く。 

 縄文は愛である。祈り、があるからだ。私たちを宇宙が生んだように、私たちが祈りによってまた宇宙を生む。天空に通じる魂、それが私の魂の起源でもあると思うとき、心の奥が深く安らぐように喜びがわき上がってくる。同時に我々が今の時代に甘受している文明のもろさが見えてくる。

 ひところ「縄文」はある種のキーワードのようだった。
 デジタルに対するアナログのような。そして、遊牧の民や移動の人々を支配する定着の民への反逆という意味を込めて。あるいは、「戦う」ということを不要とした時代への憧憬として。ちょうどネアンデルタールとクロマニョン人の対比のごとく。

 しかし、著者は、それほど「やわ」ではない。
 日本で記号論、さらには構造主義に関する研究が発展したのは彼の仕事に負うところが大きい。
 2006年、没。