あれは、高校3年の夏休み明けのことだったと思う。
昼休みに商業科の女子生徒たちが体育館に集められたことがある。
当時、私の通う高校には普通科と商業科、家政科があった。1学年に普通科が7クラス、商業科が2クラス、家政科が1クラスではなかったろうか。
家政科は女子生徒のみのクラスで、商業科もおおむねが女子だった。男女が半々の普通科クラスだった私は、用があって家政科や商業科の教室を訪ねるとき、一斉にこちらを振り向く女ばかりの視線にたじろいだりしたものだ。
田舎の公立高校であるが、県下でも進学率の高い優秀校と目されていた。また、一方で学生運動が激しいことで名を轟かせてもいた。入学するとき父に「学生運動だけはしないと約束してくれ」と懇願された記憶がある。
生徒会室には朝日ジャーナルが雑然と積まれ、汚れたヘルメットや角材が転がっていた。
運動はすでに下火になってはいたが、くすぶり続けていた。その火種となったのが、本来は卒業しているはずの、ある生徒の退学処分を不当とする取り消し要求にあった。
私が入学した昭和46年は、画家になりすまして若い女性を8人も暴行した上で殺した、大久保清の事件でもちきりだった。同じその年、現職の首相として初めて佐藤栄作が広島原爆忌の式典に出席するというので、デモに加わった生徒もいたようだ。
私は文芸部に所属していたが、顧問の先生に引率されて数人の部員とともにこの式典を見学しに行った。機動隊とデモ隊との衝突。制服に固いブーツ姿で警棒をふりながらジーパン姿の学生たちを追いかける機動隊員。彼らに向けて投げられる石つぶて。それは遠巻きにもすさまじい光景だった。かすかに時代を目撃した日である。
体育館ではなにが起きているのだろう?
私は、小学校の修学旅行の前にやはり女子だけが体育館に集められたことを思い出していた。
その時は、保健の先生から初潮について説明を受けたのだが、鉛筆のように痩せてからだも未熟だった私にはまるで話しの内容が理解できなかった。ただ、男子生徒をシャットアウトした空間には、意味もわからないまま私を圧倒する生々しさがあった。
私は好奇心にかられて体育館まで偵察に出かけた。
重い扉をそっと開け、こっそり覗いてびっくりした。
大手化粧品メーカーの美容部員らしき女性が、居並ぶ女子生徒を前に、化粧の仕方をレクチャーしていたのだ。美容部員の女性は、遠くからでもおしろいの匂いが嗅げそうなくらい派手な化粧をしていた。白い顔に細くひいた眉、大きな目を縁取る青いアイシャドウと真っ赤な唇、町では見ることもない姿は、唖然とするほどインパクトが強かった。
むろん学校側が強制するはずはないだろうから、希望者を募ったに違いない。そうだとすれば、商業科という限定は私の記憶違いかも知れない。
思えば、商業科の生徒は就職するのが普通だった。メーカー側からすれば、彼女たちは単に顧客予備軍といったところだ。やっていることも販促キャンペーンの一環に過ぎない。
しかし、「就職」と「化粧」が結びついた途端、私は世の中というものが大層恐ろしくなってしまった。「みんな、売られていくんだ」。とっさに私はそう思った。自分の感覚に狼狽するように、私はあわてて体育館から逃げ出した。
小学校から高校まで同じ学校に通い、家も近所で仲のいい友達がいた。彼女も商業科で、卒業とともに故郷を出て出版社に就職することになった。引っ越しの当日、私はうちまで彼女を見送りに行った。
私といえば、何を考えていたのか受験もせず、ぶらぶらと、この一年をどうするか決めかねていた春だった。
周りはみんな、進学、就職、そして浪人という選択も含め、新しい一歩を踏み出していた。クラスで宙ぶらりんだったのは、男と逃げるという度肝を抜くような行動をとったM子と私だけのようだった。父も母も私がなにをしでかすのかと怖れ、腫れ物にさわるように扱った。弟が志望の高校(私と同じ高校であるが)に入ったばかりというのに、バカな私のせいで家の中が暗かった。
彼女の家に着くと、おとうさんが軽トラックに積んだわずかな荷物をロープで縛り上げているところだった。
3月も下旬のこと。彼女の家は、桜の名所を背負うようにあったというのに、花は咲いていたのか、蕾のままだったのか、まるで覚えていない。
鮮明なのは、白髪まじりのおとうさんが、黙々と荷造りをする様子と、そばに立っている彼女が、いつ当てたのか、ストレートだったおかっぱ頭にパーマをかけ、見違えるように化粧をしていたことである。
そのとき私は、自分が取り残されていくのだとはっきりわかった。そして、彼女と私はもう違う世界に立っているのだと感じた。
翌年、私も大学生になって彼女と同じ街に暮らすようになった。
ある日の夕刻、デパートに出かけたとき、高校の同級生2人にばったり出くわしたことがある。
1階の化粧品売り場でのことだ。尤も、私のほうは上階にある本屋に行くためエスカレーターに乗ろうとして、たまたま通りかかっただけだった。
冬のことであった。彼女らは、仕事帰りに待ち合わせて買い物に来ていたようだ。二人とも、高校の頃より痩せて、実にオシャレで、きれいに化粧をしていた。
私のほうは、肉付きの悪い身体に夏ならジーパンとTシャツ、冬はTシャツがセーターに代わってコートを重ねるだけという、年中かわり映えのしないかっこうで、化粧はおろか、美容院にも滅多行かない有様。バッグも持たず、手ぶらなことも二人と違った。
互いに相手を認めたが、私はとっさに言葉が出てこない。同級生の変貌ぶりにドギマギしてしまい、なぜか見てはいけない、見られてはいけないような気がして、わずかに言葉を交わすと、すげなく本屋へと向かった。
私は自分の姿が恥ずかしかったのではない。私のいでたちは、確かに華やかな売り場とはちぐはぐであったが、そんなことだって一向に構いはしない。
ただ、二人の光景が、私をクリスマスのイルミネーションのように幻惑したのである。
進学するとなると地元を離れるしかなかった私にとって、その選択は親に負担を強いるものだった。
就職もまた、好むと好まざるとに関わらず、故郷を離れ、都会へと出て行く契機となった。
父も母も亡いふるさとに、もうじき、暑い暑い夏がくる。
昼休みに商業科の女子生徒たちが体育館に集められたことがある。
当時、私の通う高校には普通科と商業科、家政科があった。1学年に普通科が7クラス、商業科が2クラス、家政科が1クラスではなかったろうか。
家政科は女子生徒のみのクラスで、商業科もおおむねが女子だった。男女が半々の普通科クラスだった私は、用があって家政科や商業科の教室を訪ねるとき、一斉にこちらを振り向く女ばかりの視線にたじろいだりしたものだ。
田舎の公立高校であるが、県下でも進学率の高い優秀校と目されていた。また、一方で学生運動が激しいことで名を轟かせてもいた。入学するとき父に「学生運動だけはしないと約束してくれ」と懇願された記憶がある。
生徒会室には朝日ジャーナルが雑然と積まれ、汚れたヘルメットや角材が転がっていた。
運動はすでに下火になってはいたが、くすぶり続けていた。その火種となったのが、本来は卒業しているはずの、ある生徒の退学処分を不当とする取り消し要求にあった。
私が入学した昭和46年は、画家になりすまして若い女性を8人も暴行した上で殺した、大久保清の事件でもちきりだった。同じその年、現職の首相として初めて佐藤栄作が広島原爆忌の式典に出席するというので、デモに加わった生徒もいたようだ。
私は文芸部に所属していたが、顧問の先生に引率されて数人の部員とともにこの式典を見学しに行った。機動隊とデモ隊との衝突。制服に固いブーツ姿で警棒をふりながらジーパン姿の学生たちを追いかける機動隊員。彼らに向けて投げられる石つぶて。それは遠巻きにもすさまじい光景だった。かすかに時代を目撃した日である。
体育館ではなにが起きているのだろう?
私は、小学校の修学旅行の前にやはり女子だけが体育館に集められたことを思い出していた。
その時は、保健の先生から初潮について説明を受けたのだが、鉛筆のように痩せてからだも未熟だった私にはまるで話しの内容が理解できなかった。ただ、男子生徒をシャットアウトした空間には、意味もわからないまま私を圧倒する生々しさがあった。
私は好奇心にかられて体育館まで偵察に出かけた。
重い扉をそっと開け、こっそり覗いてびっくりした。
大手化粧品メーカーの美容部員らしき女性が、居並ぶ女子生徒を前に、化粧の仕方をレクチャーしていたのだ。美容部員の女性は、遠くからでもおしろいの匂いが嗅げそうなくらい派手な化粧をしていた。白い顔に細くひいた眉、大きな目を縁取る青いアイシャドウと真っ赤な唇、町では見ることもない姿は、唖然とするほどインパクトが強かった。
むろん学校側が強制するはずはないだろうから、希望者を募ったに違いない。そうだとすれば、商業科という限定は私の記憶違いかも知れない。
思えば、商業科の生徒は就職するのが普通だった。メーカー側からすれば、彼女たちは単に顧客予備軍といったところだ。やっていることも販促キャンペーンの一環に過ぎない。
しかし、「就職」と「化粧」が結びついた途端、私は世の中というものが大層恐ろしくなってしまった。「みんな、売られていくんだ」。とっさに私はそう思った。自分の感覚に狼狽するように、私はあわてて体育館から逃げ出した。
小学校から高校まで同じ学校に通い、家も近所で仲のいい友達がいた。彼女も商業科で、卒業とともに故郷を出て出版社に就職することになった。引っ越しの当日、私はうちまで彼女を見送りに行った。
私といえば、何を考えていたのか受験もせず、ぶらぶらと、この一年をどうするか決めかねていた春だった。
周りはみんな、進学、就職、そして浪人という選択も含め、新しい一歩を踏み出していた。クラスで宙ぶらりんだったのは、男と逃げるという度肝を抜くような行動をとったM子と私だけのようだった。父も母も私がなにをしでかすのかと怖れ、腫れ物にさわるように扱った。弟が志望の高校(私と同じ高校であるが)に入ったばかりというのに、バカな私のせいで家の中が暗かった。
彼女の家に着くと、おとうさんが軽トラックに積んだわずかな荷物をロープで縛り上げているところだった。
3月も下旬のこと。彼女の家は、桜の名所を背負うようにあったというのに、花は咲いていたのか、蕾のままだったのか、まるで覚えていない。
鮮明なのは、白髪まじりのおとうさんが、黙々と荷造りをする様子と、そばに立っている彼女が、いつ当てたのか、ストレートだったおかっぱ頭にパーマをかけ、見違えるように化粧をしていたことである。
そのとき私は、自分が取り残されていくのだとはっきりわかった。そして、彼女と私はもう違う世界に立っているのだと感じた。
翌年、私も大学生になって彼女と同じ街に暮らすようになった。
ある日の夕刻、デパートに出かけたとき、高校の同級生2人にばったり出くわしたことがある。
1階の化粧品売り場でのことだ。尤も、私のほうは上階にある本屋に行くためエスカレーターに乗ろうとして、たまたま通りかかっただけだった。
冬のことであった。彼女らは、仕事帰りに待ち合わせて買い物に来ていたようだ。二人とも、高校の頃より痩せて、実にオシャレで、きれいに化粧をしていた。
私のほうは、肉付きの悪い身体に夏ならジーパンとTシャツ、冬はTシャツがセーターに代わってコートを重ねるだけという、年中かわり映えのしないかっこうで、化粧はおろか、美容院にも滅多行かない有様。バッグも持たず、手ぶらなことも二人と違った。
互いに相手を認めたが、私はとっさに言葉が出てこない。同級生の変貌ぶりにドギマギしてしまい、なぜか見てはいけない、見られてはいけないような気がして、わずかに言葉を交わすと、すげなく本屋へと向かった。
私は自分の姿が恥ずかしかったのではない。私のいでたちは、確かに華やかな売り場とはちぐはぐであったが、そんなことだって一向に構いはしない。
ただ、二人の光景が、私をクリスマスのイルミネーションのように幻惑したのである。
進学するとなると地元を離れるしかなかった私にとって、その選択は親に負担を強いるものだった。
就職もまた、好むと好まざるとに関わらず、故郷を離れ、都会へと出て行く契機となった。
父も母も亡いふるさとに、もうじき、暑い暑い夏がくる。