アルベール・カミユ/清水 徹訳/新潮文庫

イメージ 1  「神々がシシューポスに課した刑罰は、休みなく岩をころがして、ある山の頂まで運び上げるというものであったが、ひとたび山頂まで達すると、岩はそれ自体の重さでいつも転がり落ちてしまうのであった。無益で希望のない労働ほど恐ろしい懲罰はないと神々が考えたのは、たしかにいくらかはもっともなことであった」。

 「人生は生きるに値するのか」、命題はシンプルである。しかし彼が見出したのは、不条理の中の幸福感。いや、幸福感は不条理の中にも潜んでいるのである。
 「ひとはいつも、繰り返し繰り返し、自分の重荷を見いだす。しかしシーシュポスは、神々を否定し、岩を持ち上げるより高次の忠実さを人に教える。かれもまた、すべてよしと判断しているのだ」。
 
 「不条理な論争」から始まる本書には、確かに難解な文脈もあるが、翻訳者のあとがきの最後の3行には「すべてよし」とするカミユ本来の質がほの見えて、私たちにある種の安心感を呼び覚ます。

 「かれと親しかった人びとが口をそろえて語るその人間的魅力、おそらく暗いニヒリズムを内部に秘めていたに違いないが、「会えばかならず思わず手を握りしめたくなるなるような人間だった」というかれの人柄を感じないではいられないと言いそえておこう」。

 かつて、「アウトサイダー」を世に送ったコリン・ウイルソンが「不条理な朗報」という言葉で、楽観と幸福の体験を巡る問題を提起していた。「不条理な朗報は、人生は無限の豊かさと興奮に満ち、それを見るには目を見開きさえすえばよいという気分を醸し出す」。(「即身ー密教パラダイム」/河出書房)

 15や16歳でカミユを読んだ時には、決して理解出来なかっただろう。
 それでも、あえて言うなら、15や16で、あるいは17でも18でも、カミユを読むということは、遠いある日、自らの歴史として記した一歩を振り返る契機となるに違いない。