野村進/講談社/1997
イメージ 1 昨日図書館に行くと、あいにく図書整理日。毎月在るのだが、半年に一度は3~4日と長い休館日が来る。それに当たってしまった。本屋はやけに小さいか、やたら大きいかの二極化で、実はどちらにも不満が残る。もう・・・いいや、手持ちの本を再読でも、充分楽しめるはず。
 さて、本書は、もう数年前に読んだ本である。以来、野村進の本はできるだけ読んできた。最近はノンフィクション作家と言うより大学教授だが・・・。 前置きばかり長すぎたかな。

 知識を得て、あるいは今までと少し視線をずらした途端、自分が作っていた世界が忽然と相を変えるという経験は誰にもあるだろう。確率から言えば、「世界」を作ってきた数に比例するだろうが、人は求めないものにはなかなか出会えないのでもある。
 
 著者は言う。「世界が違って見え始めた」と。「私はただ、すぐ隣にあるが見えなくされてきた世界に足を踏み入れただけであった」というのに・・・。在日韓国・朝鮮の人々の間には「シークレット・メッセージ」と呼ばれるコミュニケーションがあるそうだ。たとえば都はるみのヒット曲である「涙の連絡船」。
  船はいつかは帰るけど
  待てど戻らぬ 人もあろ
  今夜も 汽笛が 汽笛が 汽笛が
  暗い波間で 泣きじゃくる
  泣けばちるちる 涙のつぶが
  連絡船の 着く港
 この歌詞に、切ない思いを託して泣く在日の人が多 いことなど、私たちは知りもしない。
 そう、私たちはあまりに知らなすぎるのだ。現実には多くの在日韓国・朝鮮人と出会いながら、事実をタブー視することで、歴史の重さも意味も、見ないことを選択した。
 こんな話が紹介されている。
 韓国人であることを隠し続ける心の重さに堪えかねて、ついに意を決して友人にそうだと告げた時の「韓国人でも日本人でもいいじゃない」という言葉。善意から発しられた言葉に、かえって絶望的な隔たりがあることに呆然とするのだ。そしてまた、差別する側自体に、祖国意識や民族意識が希薄ということが問題を更に複雑にしてしまう。
 この壁は、時が癒すといった類いのものではないし、地域の特異性でもない。歴史のみの責でもない。朝鮮半島に限定してしまうこと自体に著者自身が違和感を覚えるように、もっと広く、もっと深く、一方ではあまりに身近でもある。
 本書を通して感じるのは新しいアプローチで、新しい関係は作れるという希望である。
 こころの在り方といった道徳や価値観のように、ある条件下では偏見の住み処となるような物差しを離れて、方法論から考え直してみる。世界を作るのは自分の意識であるという自覚は、決して暴慢さではないはずだ。

イメージ 2  文庫化もされている。左は2009年版、講談社文庫。