人はみな自分の井戸を持つべきだ
それは 泥炭の丘また丘を旅していて
教えられた枯れ草の匂う知恵の言葉
導かれた井戸は 丘のふもとの窪み
立てかけられた木の蓋を取ると
ふるえている泥炭いろの浅い水量〔かさ〕
私は 遠いわが裏庭の忘れられた古井戸
蓋をしたままの油の浮いた水を思った
帰ったら あの井戸を浚〔さら〕えなければ
それよりも 私自身の内側の井戸を
浚えるよりも前に まず捜さなければ
私は わが家の井戸蓋を埋める落葉より
さらに夥しい内側の怠惰の堆積を思った
甕に貯め置かれた泥炭の井戸の上澄みは
蟠〔わだかま〕る曇り空の裂け目から覗く空のように
するどく冴えて 舌とのどに喜ばしかった

(高橋睦郎『柵のむこう』より/不識書院)