それから冬が来た。
私は喫茶店で働いているけれど、実はコーヒーが飲めない。コーヒーを飲むと胃が痛くなってしまうからだ。だけど、この深い香りは子供のころから大好きなのだ。そしてこのお店の、この店長の淹れるコーヒーから漂う気品の森に私はいつまでもつつみ込まれていたいと願ってしまうのだ。あれから私は彼に一緒に帰ろうと誘うのをやめた。普通にタイムカードを押してパートをはじめたころのように「お疲れ様です。お先に失礼します」と笑うと彼も優しくお疲れ様ですと返してくれる。私だってほんとうに壮年ごっこがはじまるなんて期待していたわけではないと思う。大人はこうしてなんとなく柔らかく淡く精神的に離れて立っていなくてはいけないのだ。今さら恋心を抱いても痛いだけだとはわかっていた。
その日もいつものように「お疲れ様でした」と挨拶すると彼が言った。「コーヒー淹れましょうか」「うれしいけど、私飲めないって知ってますよね?」と笑うと「カフェオレならいけるんじゃなかったですか。ちゃんとミルクをいっぱい入れますよ」「あら、それはうれしい。ならいただきます」私はカウンターに腰掛けた。店長とサイフォン、泡立つコーヒー。静かな柔らかな時間だ。「夢を見たんです」店長はコーヒーを撹拌しながらつぶやいた。「夢?」「須賀さんと森を歩いていたんですよ」「へえ。森を歩いてたのか」私が彼に抱くイメージが彼に転送されたのか、なんとも不思議な気持になった。「それで歩いているうちにあたりが真っ暗になって僕たちは離ればなれになるんです」「それでどうなるの?」「それで終わりです」「えー」彼はカップにほんの少しコーヒーを注いで続いて温めたミルクをたっぷり注いだ。そして、そっと私に「はい、どうぞ」と差し出してくれた。「オチがなくてすいません」「まあ、夢なんてオチはないもんだよね。それに現実もさ。曖昧でよくわかんなくてそれでもなんか許されてるというかさ⋯」店長は少しだまったから私は「いただきます」とカフェオレをひとくち飲み込んだ。「とても美味しいです」と笑うと彼も「それならよかったです」と笑った。彼の入れてくれたカフェオレはやわらかいあたたかさでほんのり甘くて、そしてやっぱり深い森を感じた。ミルクは森を深く包みこむ霧のようでいっそう神秘的だ。それから彼は柔らかくサイフォンを分解し、後片付けをはじめた。今日も店長は食器と水が自然に寄り添っていくように手を動かしている。ただの洗い物が魔法みたいに見えるのはどうしてだろう。水を止めてから彼は「ひきとめてすみませんでした」と言った。「ううん、ありがとう。私、店長といる時間がとても好きなんです。心地よくてさ、その優しさにつけいってしまって悪かったんだけど」「そんなことは⋯」「あ、私自分の使わせてもらったカップとソーサ洗いますね」「いえ、僕が洗うので大丈夫ですよ」彼はそう言って私から食器を受け取って、例の魔法をさらっと見せてくれた。閉店後の喫茶店の森の中で私はさまよって血迷ってしまいそうだ。「それじゃ、私は帰りますので。ほんとうにごちそうさまでした」とお辞儀をして荷物を持って外へ出ようとした。「一緒に⋯帰りませんか?」店長が細い声で言った。「え?ほんとに始めるの?壮年ごっこを?」私は笑った。「なかなか難しそうですね、壮年はどんな話をするんでしょうか。僕には未知の世界なので」「私は壮年にあたる年だけど頭が幼稚だからわかんないな」そういうと彼は笑った。「もうごっこじゃなくていいんじゃないですか?僕と須賀さんがただ一緒にいる、それだけじゃないですか」「そっか、そうだね」店長は店の電気を消してから扉を開いた。私は先に外に出させてもらい鍵をしめる彼の背中を見ていた。やさしくてどこか寂しげで、けれどもたくましいその背中を。少し前は他愛のないことを話して歩いていたこの街。少し久々だとちょっと意識してしまう。あの手の温度を思い出してしまう。今日は寒いから余計に。「僕は怖かったんです」「ん?」「森で迷子になったときとても怖くてちょっと泣きそうになったんです」「ああ、夢の話か。うん、そっか。怖いよね」「僕たちもう離れ離れになったまま死んじゃうのかなって思ったんですよ」そんな話を聞いているからなのか街の光がいつもとどこか違ってみえた。信号もクルマのライトも全部なんだかほの暗く揺らめいているように感じる。「うーん、その話ホラーっぽいね。ちょっと信号が人魂に見えてきたよ」「人魂?!」彼はそう繰り返して笑った。そして駅のエスカレーターに乗った。「いつかはみんな離れ離れになって死んじゃうんだよね。それは決まりきってるていうかさ、でも死んだあとに繫がるかもわかんないし全部が全部循環してくはずだよね」私はいつも通り口から出任せを言うと「そうか、コーヒーみたいですね」と彼は笑った。「そうだね、人生がコーヒーなら、店長は神様かな」「大地を耕して、みたいな」「そうそう」改札の前で立ち止まってまでちょっとよくわからないことを話して笑っていた。「それではお疲れ様でした」彼が言い、私も「お疲れ様でした」と言って会釈してやはり手を振った。会釈して改札を抜けた彼は、こちらをそっと振り返り、軽く手をあげてやわらかく振り返してくれた。その淡い揺らめきはコーヒーの湯気のようだった。
冬の森は少しおどろおどろしくて、だけどどこか面白くて、きっと少し温かい⋯そんな気がした。