平成18年9月。
新たな部門も新たな従業員と引き抜いてきた従業員たちとまた新たな幕開けだった。


あとに聞かされた話しだが、実は同時期 今まで 立ち直した部門の拡張が予定されていたのに
新しい部門の立ち上げに参加したのは
新しい部門を任せようとしていた従業員に対する本社の厳しい審査により、新部門はわたし出なければ展開自体をなかったコトにすると言われ
急遽、わたしが抜擢されたらしい。

……本心は新部門ばかりではなく、ある程度安定した部門の拡張をしたかったが
これもチャンスと捉え、向き合った。


平成19年3月頃。
結局、既存の部門の拡張が上手くいかないという理由でまた立て直しに戻り、元々新部門を任せられるはずだった従業員がわたしが数カ月かけて
築いた地盤を引き渡すコトになった。


この頃からこの悪循環の繰り返しとわたしを指示する上層部とわたしに追い抜かれるのではないかと不安な役員の2つから板挟み状態になった。


平成19年4月。
メンタル的に限界を超えた。


その頃から数年、悩まされていた不眠症の治療の際
「うつ病」という気分障害を患った。
このまま仕事を続けて、死ぬか仕事を辞めてメンタル的に改善するかの選択を医師に迫られる。


迷うコトなく約3年間の職務を終えた。



平成19年から平成20年9月マデ 「傷病手当て」が支給され、
失業保険受給期間延長の手続きをしていたので
通院している中で目処がたち
平成20年10月から平成21年1月マデ 「失業手当て」を受給しながら、仕事を探したが
何も自信がなくなり、自分に自信のない人を雇う会社もそうそうなく…


平成21年2月。
国立大ラボにて就職した。
今まで見たことのない異次元の世界だったが…




つづく。



平成13年。
縁があり、大手通信業界に入社。


平成14年。
入社1年経った日。
辞令を頂いた。
業界史上初最年少の部門の責任者。
自分より年上で業界も長い先輩たちの中で、
肘をはってやって行こうと決意した。


平成15年。
数個の部門の長になり、帰宅時間は0時を回る事はしばしば。
それでも、仕事が大好きで出世欲の強かったわたしは少し安定してきた任された仕事に物足りなさすら感じ始めていた。


平成16年。
物足りなさが違う世界に飛び込みたいという現実味を帯びた。
同業界にて、お誘いは数社からあったが違う業界で
また自分の1からのスタートを決意し、丸3年お世話になった会社を後にした。


同じく平成16年。
約7ヶ月に及ぶ資格取得スクールに通い、医療分野に足を踏み入れた。

……が
縁が全くなかった。
潔く、給料の面から考えてみた。

それまで、同年代の会社員の数倍は頂いており
3分の1になる覚悟で医療現場での道を歩もうとしたが
車が一括でしか買った事のないクレジットはゴールドしか持ったコトのないわたしにはそれが当たり前で、物の値段を気にする生活が送れるか?
と自分を問いただしたところ…

わたしは甘かった。


同年平成16年10月。
大手通信業界別会社に面接に行き、その場で採用が決定した。
……が、同時に初めての給料が手取り10万強と初めての1人暮らしで貯金を切り崩して生活をする日々が9ヶ月近く続いた。
安い給料は実績を上げれば、伴う。
それを信じて辛くて過酷な9ヶ月を耐え抜いた。

わたしはまだ見放されていなかった。
9ヶ月後、新しくM&Aをした会社を任せられ、それに伴い転勤で運よく実家に帰った。
「この時、わたしは実家にいなくてはいけない理由があった」。


平成17年8月。
M&Aした会社はわたし率いる本社の人間を騎馬戦の様に戦いに来たと警戒心を露わにし、なかなか表だっての業務以外は指示に従ってもらえなかった。

理由はわたしより先乗りしていた数名の社員の横暴な対応が根っこを作ったコトはすぐにわかった。
諸先輩たちに恥をかかせたくないので、事態収集のため社員はわたし1人と新たに雇った従業員、そしてM&Aした従業員で新たなスタートをきった。


平成18年9月。
約1年に及ぶ葛藤の末、若干のまとまりを見せたわたしに降りかかったのはまた新たな部門の立ち上げ。



つづく。



同居人は仕事が終わると必ず、電話をくれる。


今日もなんだか
気持ちよく迎えてあげられなかった。



それもスゴーイくだらない意見の相違で…

わたしってば、
なんでこんな風になっちゃったんだろう…
と考える申し訳なさとの繰り返しで
悪循環な自分へのいらだちばかり。


つまらない わたし。