名作の楽しみ‐587 五木寛之 百寺巡礼第三巻 京都1
古寺巡礼に続いて五木寛之の百寺巡礼を読んだ。和辻哲郎の哲学者の文章とは違い、小説家の文章がすとんと頭に入ってくる。金閣寺、銀閣寺、神護寺、東寺、真如堂、東本願寺、西本願寺、浄瑠璃寺、南禅寺、清水寺と紹介していく。
金閣寺は足利義満、銀閣寺は足利義政、神護寺、東寺は空海と深い関係のある人物を深く掘り下げながら、紹介していく。全二者では、三代将軍と八代将軍の対比をしながらこの寺が如何に当時の民衆の犠牲の上につくられたかが語られる。そして、こうした文化、日本独特の侘び寂びの文化が足利義政という政治から逃避し文化に傾倒しある意味天才からできてきた背景の描写はなるほどと思わせるものだった。まさに五木寛之の真骨頂だと思った。
神護寺は空海という空前の天才が唐から持ち帰った密教を開いたところ。続いて東寺において定着させたことが時の延暦寺の最澄との葛藤を織り交ぜながら物語っていく。空海は天才だがどちらかといえば権力に固執した人間として司馬遼太郎などは評しているが、五木寛之はただただ密教を定着させたいためのみ奔走したとしていて、私も大いに賛同したい気持ちになった。
真如堂は法然、親鸞の世界。東本願寺、西本願寺は親鸞の世界。苦行から易行への劇的転換で一気に信者が広がった浄土教、浄土真宗。特に親鸞が開いた浄土真宗はその後、蓮如によって劇的に信者が増え、今でも日本で最も信者の多い宗派である。その原点となった真如堂、東本願寺、西本願寺が紹介されていく。
東寺は弘法大師の真言密教の拠点。その後高野山でさらに拡張していった真言宗。その後空海の弟子が全国に広め、今でも川崎大師、成田山など新年には毎年数百万人がお参りする。東寺は京都駅から見える五重塔がいつも迎えてくれる常に心の片隅にある寺の印象が強い。神護寺、東寺、長谷寺、高野山と四国お遍路の合間に行ってみたいとの気持ちが沸き上がっている。
浄瑠璃寺。この寺のことは高校の教科書で堀辰雄の「浄瑠璃寺の春」という文章で知り、かなり印象的だったことを覚えている。中でも馬酔木の花と吉祥天如像のことが強く残っているが、ここでは全く出てこなかった。何か気が抜けた感じがした。
南禅寺。あの三門のことが出るだろうともいつつ読んでいくと案の定出てきた。しかもあの石川五右衛門が「絶景かな、絶景かな」と叫んだ歌舞伎の一場面が取り上げられていて、何か安心感が漂った。昔読んだ「新書太閤記」では豊臣秀吉と石川五右衛門が幼馴染で仲が悪く、天下人と大泥棒となって世を騒がせ、南禅寺三門で睨み合ったという伝説はワクワクしながら読んだ記憶がある。さすが五木寛之だなとその記述にほっとしたものを感じた。
最後は清水寺。観音菩薩を祀るが、真言宗、浄土真宗をはじめとして神道も含めた多宗教の総本山といったところで、多くの信者が集まるところである。貴族から最下層の民衆まで観音様のお参りに来たことが記されている。まさにこの本の最後を飾る寺として最適だなと感じ入った。ともかく宗教戦争は避けなければならない。人は生まれたとき、どんな境遇か選択できない。その中でそれぞれの人の宗教観が形成されていく。それを否定することは絶対にしてはならないと思っているが、ここではそのことが切々と訴えられていた。いい本を読んだとの思いで読み終えることができた。
