透析生活に入った母

変わった事といえば、
週3回透析に病院通いすること
薬を山ほど飲むようになったこと

それだけだったように見えた

私たち家族が何か手伝ったこともなかった

山ほどの薬も自分で、お菓子が入っていた空き缶に種類ごとに分けて、朝、昼、夕でそれぞれ違う組み合わせを間違えず飲んでいた

私は、たった三種類でも、飲むたびに
袋確認して、あ、これ夕は、飲まないんだった!となるけどね

母の透析は、週3回で
火、木、土
初めは三時間だったが、
何年か経ったくらいに四時間になった

体に負担をかけないようにっていう
のと、ドライウェイトにするためだったかなぁ
ここは、曖昧です

ドライウェイトを保てない状態が続くと
いうのは、体への負担は半端ない
水分制限を守りきれない母は
やはりドライウェイトにならない日も
あった

だから四時間に伸ばして
ドライウェイトにしましょう
てな話だったと思う

結局は、三大制限を守れず
我々の監視に逆ギレしてきた分は
母の体の負担となって
蓄積されてきていたんだろう

それでも母は、我々の助言は却下し続け、
侍ドクターの、死ぬよ?という言葉も
右から左に流し
自分の体は自分がよくわかってるから!
と言っていた


この小さな蓄積が、のちに
爆発するなんてことは、まだ家族の誰一人、本人も思いもしてなかった
透析する前の母は、
床屋をしていて、我が家の一角に
店を構えてました

しかし、時代の流れか
我が家の経済状態か
床屋を閉め、パートでお仕事をするようになりました。

フルタイムパート
お弁当持って、朝、8時に出発して17時くらいに
帰ってきていたような・・・
曖昧な記憶です

そのパートをしているときの
健康診断で尿蛋白と高血圧で
ひっかかり再検査

そこで県立病院へ
その時に出会ったのが、ズバッと切り裂く担当医

担当医は、母の腎臓の細胞を調べ

あなたの腎臓は、そのうち必ず透析が
必要になる腎臓だ

と言ったらしい

しかし、その始まりを遅らせるためにも
塩分を控えなさい

そう言われたときからだったか
家のトイレに紙コップとリトマス試験紙が置かれるようになった

リトマス試験紙は、蛋白をはかるもの
蛋白が出てると色が変わる

その頃の私は学生で
あまり母の病気に関わってなかったのと
具合が悪くて寝込むなんてことは
あまりなかったため
そこまで心配はしていなかった


母の血圧は、上が200を越えていた
それでも母の体には、
さほどの変化はなかったらしい

お風呂も熱めのが好きで
母曰く、お湯に入って体が少し痒くなるくらいの熱さだとか・・・笑っ

そういえば、我が家では母がほぼ一番風呂だったかな
私や父は、温めが好き
母と姉は、熱め
私や父の後だと、温くて入れないと
追い焚きしてた

血圧200超えの人の熱めの風呂
しかも、長風呂・・・
無知って怖い

病院に通うようになってから
自宅用の血圧計を購入
手首に巻く簡易的なやつ

けど計ったからといって
その数値を目安に動いていたってことは
なかったんじゃないかなぁ

私は、計っているのは見てるけど
数値を気にしてなかった為
覚えていない

血圧のお薬は、20年以上のお付き合い


母は、習い事に行くかのように
透析に通ってました

お化粧をきちんとして、お出かけするかのように洋服を着替えて

じゃぁ、いってきまーす!と
車運転して

我々の薄っぺらい知識では
透析のあとは、ぐったりして
運転なんてと思っていましたが

母は、透析後に買い物してくるくらい
元気でした
看護士さんとも仲良くなって
○○ちゃんがね、○○くんがねって
楽しそうに話してくれました

まだ始めたばかりだったのと
やはり50代で体力もまだ透析の疲れを
上回るくらいはあったからだろうな

透析患者は、実年齢+透析年数の体だと
昨年入院した病院の医師に言われた

つまり今母は、69才+18年=87才の体
透析は、その年齢の人に何時間も全力疾走させてるようなくらいの負担と疲労が
あるらしい

透析歴が長くなればなるほと
体への負担が大きくなるということ

しかも、そこで三大制限を守っていなければなおさら負担がかかる

母は、そこまで節制しているようには
見えなかった

そんなに水飲んで大丈夫か?
といつも思っていたし

食事もみんなと一緒のものを食べていた

ボテトチップスが大好き
イチゴもヨーグルトもチーズも
大好き
海産物も大好き

今、母の食事を管理するようになって
おそろしくなった

母が大好きだったものは、
ほとんどカリウムが多いものばかり
母の体に負担がかかるものばかりだった

その蓄積が今、爆発したのかもしれない
母のシャントは、
自己血管を使って作っています。自らの血管を育てる

昨年、入院した時
透析何年目ですか?
シャントの再建は?
と聞かれました。
18年目で、シャントは今2つ目ですが、
初代のもまだ動いています。
閉塞して再建したわけじゃなく、
閉塞してからでは遅いからということで
再建しました
と、答えました

すると、医師は、なんていう先生だったの?と。○○先生です。
さすがだなぁ~と言ってました
なかなか、ここまで持つってのもないみたい
そして、母の担当医は、泌尿器科では名が知られいるらしい
無知の私は、そうなんですかぁ~と。

その名の知られてるドクターに、
透析始まってから、言われ続けていたこと

水分、塩分、カリウム
他にも色々制限はあるんだけど
この三つは、必ず守りなさい

今ではありえないのかもしれないけど、
あ、ドクターXは言ってたかな

守らないと死ぬよ?

シャントも造り、通院透析をするようになり、最初は、週3回の三時間だったかな
それ以外は、病人を感じさせない感じだし、透析終わりも自分で運転して帰ってきたし、軽くパートもしてたし。

そんな人が三大制限を完璧に
守れる訳もなく・・・

初めは、気合い入れてペットボトルに
メモリを書いてみたり
塩分を計ったり、生野菜を禁止したり
果物も制限して

本人よりも家族の方が、監視役になって

家族側の努力は、水分制限ある人の前で
飲まないようにとか
果物食べないとか

飛ばしすぎたんです
結果、母は、逆ギレ
こんなんじゃ、もう死んだ方がまし!と

そうよね
いきなり制限かけられたんじゃね
しかも、果物も生野菜もお水も
大好きだからつらいよね

そこで我々は、何も口出しをしなくなりました。

母自身もそこそこには気をつけていたんだろうけど
結果、今の状態です。

初めから、逆ギレに負けず、節制させていたら、また違う結果になっていたのだろうか?

それとも18年も経つとみんなこうなるのか?

答えは分からないけど
1つだけわかることは、
シャントを造ってから、母の血管は
太く強く育ち18年間一度も閉塞を
していないということだけ

当時の担当医に感謝かな
私が結婚したのは、24才
2年程たった年末
父から連絡が入り、母が浴室で嘔吐
その後、寝室で嘔吐し、病院に来ていると

急いで病院に向かうと、ウロウロしている父

少したってドクターに呼ばれ、
透析しなければ、命が危ないと言われた

その時、母は52才
命が危ない!そう言われたら選択肢はない
でもその前に、父に確認

透析しないと危ないって・・・
父は、まさかの反対だった

なぜなら、透析をすると命が縮まる
と思っていたから

昔・・どこまでを昔といったらいいのかは定かではないが、透析を始めると五年も持たないと言われていたとか

その話が頭にある父は、早く死んでしまうくらいなら透析なんかしない!
と言った

まずは、父の説得からだ
その頃の私は、母から、何年先になるか分からないけど、必ず透析するようになるんだって。と聞かされていたが、
透析というのもを全く知らなかった

ドクターのところに言って、説明をしてもらう。今の医療は昔とは全く違う
透析した方が長く生きれる
何より今、選択肢はないですよと

母の担当医は、包み隠さずバッサリ切るタイプ、良い意味でも悪い意味でも。

説明を受けてわかったこと
今透析しないと死ぬということ
それだけだった

父を説得し、同意書にサイン
透析をするとなると、本当は、シャントという血液回路を作らなければならないが
母には、その時間がなく、
緊急処置で透析を行った

それが透析の始まり