07182019のブログ

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私の2017年からの乳がんと医師と病院との闘いを書いていこうと思ってます。

私は、

このブログを始めるにあたって、



やっと自分の言葉を

表に出して言ってますが、



どんな所でも、
どんな人にでも、


もう今までの人生で

たくさんの裏切りにも
合ってもきたので、



他人に自分の気持ちを
訴えることなんて

しなくなっていました。





ましてや病院で、

病気の治療の

プロである医師に、

いっさい

自分の気持ちや、

逆らうような事を

言うわけがありません。



その道のプロに
口をはさむような態度を取って、

嫌がられて、

しなくても良い喧嘩をして、



いろいろな事が

長引くほど

ばかばかしいことはない

と思って、



50数年生きてきたのです。





そんな風に生きてきた私なのに



初めて行った

婦人科クリニックで出会った、

乳ガンの告知も出来ず、

慌てふためいて、

次の病院へ持って行けと

何も入ってない

CDROMを

渡して来た若い女医。




その後

その女医に薦められて、

予約を入れられて行った
病院の男性医師は、
検査結果の報告の前に

私のガン細胞を
9000円で買おうとし、





セカンドオピニオンで行った
大学病院で
わらをもすがるつもりで
受診した
客員教授には、

診察を受けるたび、

ドクハラを

受け続けました。





そして、術後1年経った頃、

私の手術の傷跡を見て、

「スパっといったね~」

と半笑いで言った

M病院の男性医師




もう、神も仏も

いないのか!

と何度悔し涙を

流したかわかりません。




大学病院の主治医に

このT客員教授の

ドクハラを告げたところで、

「すみません。

いつもそうなんです。」

と言われるだけで、

本人の態度は、

一切改められることは
なかったのです。





こんな目に合うことが

不思議でならない

この6年間でした。



そして、この後も、

5人目の最低最悪の医師に

また、出会ってしまうのでした。

2006年が終わるころ、

父の友人が、
いつまでも売れなかった

工場と家をまとめて、
引き受けてくれることになり、
やっと片付きました。

 

2007年の2月には
引っ越しが決まっていたので、
本当に嬉しかったです。

 

 

3回忌を終えて
やっと引っ越せると安心していたところ、

今度は、母親が

「あなたたちだけで引っ越して」

 と言い出しました。

 

 

これが、のちのち18年続く

母との闘いの始まりでした。

 

母は、もう何もかもできないし、しない人で、

今回の引っ越しも、

25年住んでいた一軒家(7LDK)を

そのままの状態で置いて、

新しいマンションに引っ越した人です。

 

もちろん、私と姉が、
掃除屋さんと片づけました。

2トントラック2台分の布団やら、
ガラクタやら、ごみです。

 

先に言っておきたいのは、

毒親とか、母親としてとか、

そういう角度からの話ではなく、

 

 

この世に生まれてきた時に、

もともと欠けてはいけないものを

初めから持っていなかった人

のお話なので、

誤解ないようお願いします。

 

 

2007年が来て、

やっとマンションに引っ越しが決まり、

ほっとしていたわたしたち姉妹は、

身体も心もぼろぼろで、

起き上がるのも大変でした。

 

そんな中、

片道2時間の高速を飛ばして、

元の家とマンションを行ったり来たりして、

途中、

新車の窓ガラスが、

高速でトラックのせいで、

割れたりしながら、
引っ越しを必死で進めてました。

 

日に日に弱る私たちに対し、

父の遺産を半分もらった母は、

どんどん強気になり、

私たちにきつく、強く
あたるようになっていきました。

 

税理士さんの采配で、
父の遺産は、

母に2分の一、

私たちに4分の1ずつふり分けられ、
法律通りなので、
なんのいざこざもなく財産分与はすみました。

 

ましてや、私たちは、

女3人で新しいマンションで一緒に住むので、

もめる必要などなかったのでした。

 

とにかく、

母の預金を減らしていかないと、

また、母が亡くなった時の
税金が大変だということで、

マンションも母の名義で買いました。

 

 

それが、悪かった。

 

母の顔つきが変わりだしたのは、
今考えれば、このころでした。

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