平塚八幡宮は古くは鶴峯山八幡宮と称えられ、仁徳天皇の68年、この地方を襲った大地震に苦しむ人々の様を見かねた天皇が国土安穏を祈り、應神天皇の御神霊をお祀りされたのが創祀です。
その後、推古天皇の御代にも大地震があり、人々を案じられた天皇は「鎮地大神」の御宸筆を捧げて国家安泰を祈願して社殿を造営し、さらに天武天皇はこの地の税を寄進、文武天皇は宝剣「天晴彦(あめのはるひこ)」を奉納、そして聖武天皇は相州一国一社の八幡宮(霊場)として法華経を奉納されました。
その頃、寛治元年(西暦1087年)には平塚八幡宮の御分霊を戴いて岐阜県高山市山口に桜ヶ岡八幡神社として鎮座されました。
鎌倉時代以降も源頼朝公が夫人政子の安産を祈願して神馬(白馬)を献上した等、
武人の信仰も篤く、特に徳川家康公は社領を寄進し、慶長年間には自ら参拝し、
伊奈備前守忠次へ命じて社殿を再建されました。
江戸期になると、平塚は日本橋から数えて8番目の宿場として賑わい、
特に門前の大門通りは東海道、須賀港、厚木往還、大山道の重なる交通の要衝として
発展し、旅人は道中の安全を祈り社頭は大いに栄えました。
明和2年平塚宿の僧本誉還真が18年間集めた浄財で青銅鳥居を奉献、
奉賛者名は今も鳥居に刻まれ現在でも二の鳥居として境内にそびえています。
大政奉還の後、官の達示により社名を「八幡神社」と改称しましたが、
平塚の街は海軍火薬工廠の建設などによって、商業、工業として成長し、
明治27年には明治天皇の王女常宮昌子内親王、周宮房子内親王がご参拝にり、
社頭に松樹をお手植えされ、御神池に緋鯉を放生されました。
大正12年、関東大震災に見舞われ、被害は甚大で御社殿も崩壊しましたが、
氏子、崇敬者の尽力のもと街の再建とともに昭和3年に再建されました。
大東亜戦争後には神社本庁が包括する別表神社となり、
空襲によって大きな傷跡を残した平塚の街も、全国に名高い「七夕まつり」を
開催出来る程に復興し、昭和53年8月には現在の社名である「平塚八幡宮」へ改称しました。
現在でも平塚八幡宮は、應神天皇、神功皇后、武内宿禰を御祭神に、
相模國一國一社八幡宮として、また鎮地大神と仰がれ、数多の方がご参拝になっています。
8月15日の例大祭、5月5日に斎行される1000年余の歴史を持つ國府祭(こうのまち)、
9月中旬に行われる「ぼんぼり祭」等、平塚八幡宮の鎮守の杜は、信仰、歴史、
文化の交わる場としてとして、また、心の故郷、憩いの杜として護り継がれています。
どんなもんかと思って見たNHK土曜時代ドラマ「アシガール」の1話。
『アシガール』は、森本梢子による少女漫画。
戦国時代を舞台にしたラブコメディ。
「Cocohana」(集英社)にて2012年1月号より連載。
単行本は既刊9巻(2017年9月25日現在)。
NHK総合テレビの「土曜時代ドラマ」枠でテレビドラマ化され、
2017年9月から放送されている。
森本梢子 『アシガール』 集英社〈マーガレットコミックス〉、既刊9巻(2017年9月25日現在)
(画像お借りしました)
ある時、毎日を普通に過ごす子女子高生「速川唯」が、天才的発明才能を持つ弟・尊の研究室でうっかり何かの装置スイッチをオンにしてしまう。
あたりが眩い光に包まれ、気が付くと、そこは見たこともない草深き山と草原。
テレビも電気もスマホもない昔の日本の「戦国時代」であった。
事態が呑み込めず戸惑う唯だが、このままでは野盗などに襲われてしまう。
どうにかして足軽の鎧具足を手に入れ、少年のような風貌を生かして「唯之助」という偽名で男に成りすましたところ、偶然その場を通りかかった眉目秀麗な武将・羽木九八郎忠清に一目ぼれ。
しかし相手は身分高き大名家の跡取り息子だった。
自分はただの女子高生。「どうすればまた逢えるのだろうか?」と考えた末、彼女はこのまま足軽として、忠清の軍に加わろうと決心する。
かくして、現代では足が速いだけが取り柄だった少女は、数奇な運命によって戦乱の世で生き抜くため、そして憧れの人の傍にいるために、足軽ならぬ「アシガール」として戦場を駆け抜ける。


(画像お借りしました)
コメディタッチだけど、健太郎演じる「若君」がカッコ可愛い^^
その後「足袋蔵まちづくりミュージアム」に![]()
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廻っているうちに、行田市のB級グルメがあるのを聞いた。
その名は「ゼリーフライ」![]()
地元のおばちゃん捕まえて売っている店を聞いてみた。
「買い物も終わったし、一緒に店の前まで行ってあげるよ^^」ってチャリ押しながら案内してくれた。
このゼリーフライは市内のアチコチで食べられるようで、店によって味が違うらしく、皆自分の好みの店があるらしい。
美味しい店など探している時間もないので歩いていたところから一番近い店を教えてもらった。
さて、「ゼリーフライ」とは・・・・
見た目は衣のついていないコロッケのようなもので、そのルーツは、
日露戦争の時中国から伝わった「野菜まんじゅう」だということです。
ジャガイモにねぎやにんじん、さらに沢山のおからが入っているのも特徴で、
食物繊維が豊富でヘルシー。
おいしくてダイエットできることうけあい。(揚げ物ですけどねw)
ソースの味と香りがとても利いて、モチモチとした食感が大人にも子どもにも大人気。
その名の由来は、小判形であることから「銭フライ」と言われていたものの「銭」が
なまって「ゼリーフライ」となったとか。
角にあるから「かどや豆腐」w
最初にゼリーフライと聞いた時は、「えぇ〜
気持ち悪い・・ゼリーのフライ?
」と思ったw
名前の由来を聞けば、あぁ~なるほどねぇ~となったねぇ~![]()
お豆腐屋のご主人が「スグに食べる?なら温めてあげるよ^^」と
チンしてくれたので アツアツで頂けました!
そうねぇ~腹にたまるおやつって感じだねぇ
コロッケみたいなもんだからね!
外で立ち食いw
昼を食べないで歩き回っていたから 美味しく頂きました![]()
最後に「のぼうの城」の舞台となった「忍城」へ。

(画像お借りしました)
--豊臣軍にケンカを売った、でくのぼうがいた。--
「この城、敵に回したが間違いか」
天下統一目前の秀吉が唯一落とせない城があった。
驚天動地の戦いが今、始まる!
勝てるのか? 天下を敵に回して
あの豊臣秀吉、石田三成が、歴史上、唯一攻略できなかった城があった!
本能寺の変から8年、1590年。戦国末期。
天下統一を目前に控えた豊臣秀吉は、関東の雄・北条家に大軍を投じた。
そのなかで最後まで落ちなかった支城があった。
武州・忍城(おし・じょう)。
周囲を湖で囲まれた「浮き城」の異名をもつ難攻不落の城である。
城代は、成田長親といい、領民からでくのぼうを揶揄した「のぼう様」と呼ばれても
意に介さず、将に求められる智も仁も勇もない、文字通りでくのぼうのような男。
外見からはおおよそ窺い知れない誇りを持ち、底知れないスケールの大きさで、
人心を掌握していた。2万の軍勢を従えた石田三成は忍城を包囲する。
総大将たる「のぼう様」長親には、物量にものを言わせ問答無用の戦略をとる三成軍20,000の大軍を前に、領民も一体となった<忍城>の猛者たちは一歩もひかず迎え撃とうとしていた。
その数わずか500騎!
この絶体絶命の状況下、一丸となって立ち向かうのぼう軍に対し、石田三成は、
秀吉が得意とする“水攻め”という驚天動地の戦術を発令!
その勝敗が誰の目にも明らかに見えたとき……戦は、意外な進展を見せていく―。
「忍城の築城」
戦国時代、行田周辺の武蔵武士の中から、現在の熊谷市上之を本拠地とする成田氏が大頭し、
忍城(おしじょう)を築城しました。
文明11年(1479)の古河公方足利成氏の書状に「忍城」「成田」とでてくることから、
このころには築城されていたと考えられます。
当時の城主は成田顕泰といい、以後親泰、長泰、氏長と四代にわたり、天正18年(1590)まで、
約百年のあいだ成田氏が忍城主でした。
永正6年(1509)、忍城を訪れた連歌師の宗長は、城の四方は沼にかこまれていて、
霜で枯れた葦が幾重にもかさなり、水鳥が多く見え、まことに水郷である、と日記に書いています。
忍城の築かれた場所は、北は利根川、南は荒川にはさまれた扇状地で、小さな川が乱流するとともに
伏流水が寄り集まって広大な沼地となっていました。
そこに残る島や自然堤防をたくみに利用して、忍城が築かれました。
「石田三成の水攻め」
天正18年(1590)年3月、豊臣秀吉は関東平定のため、そのころ関東を支配していた北条氏の拠点
である小田原へ出陣しました。
忍城主の成田氏は北条氏に属していたため、秀吉方の部将、石田三成によって攻められることに
なりました。
6月5日、三成は地形や季節を考えて水攻めを計画し、約1週間で延長28キロにもおよぶ堤を
築き、利根川と荒川の水を引き入れるという大作戦をおこないました。
しかし、城が沈まなかったため、これを見た人々は城が沈まないのは浮くからだと考え、
忍城は「浮き城」として、その名を轟かせました。
現実には、忍城の地形がまわりよりも少し高かったため、沈まなかったと考えられます。
その後堤は切れてしまい、水攻めは失敗に終わりました。
忍城の戦いは小田原城が7月6日に開城した後も続きましたが、最終的には開城して
7月14日に豊臣軍に引き渡されました。
三成の築いた堤は、市内堤根地区に「石田堤」として、今も一部が残っています。
駐車場から入ったので、ここはどうも裏側になるようです![]()
「本丸土塁」
「けもの道」の様に人ひとりが歩ける道があったので、土塁に上がってみた。
(ここを訪れた人達が土塁に上がっていくうちに出来た道って感じw)
(本来登っていいのか?って感じの土塁、めっさ急斜面だし
)
普通のスニーカーで土の急斜面は滑る滑る><
心細いが丈夫そうな雑草に捕まりながらえっちらおっちら登ってみた。
さくはトコトコ問題なく上がっていく![]()
上からの眺め。![]()
土塁から降りる時の方が どえりゃぁ~大変で・・・・お尻で滑って行こうかと思ったw
さくが心配だったが、軽々トコトコと下まで降りて行く。
「いやぁ・・・・怖わぁ〜どうしよう
」と熊笹を掴んだまま固まっていると・・・・
めずらしくキリっとした顔した「さく」が走って助けに来た![]()
「ちょ〜〜〜カッコイイんだけど
MYダーリンてばっ
」
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こはぜ屋の試作品ランニングシューズが出来上がり、
四代目が自ら履いて忍城のお堀端を走る図・・・![]()
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「俺も役所さん見習って走り込むか・・・・・」
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偶然にも同じ場所だった
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「ほよっ
」
気持ちの良いお散歩が出来ました![]()
おまけ(山崎賢人君のファンではございませんがw)
終いじゃぁ~![]()
※誤字・脱字があった笑っておくんなw
もともとは類焼を防ぐための耐火建築で、町家形式として発達した蔵造り。
川越一番街エリアでは、黒漆喰の壁に、大きな鬼瓦、重厚な造りの商家が連なり、
江戸の面影を留めています。
平成11年12月には国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定され、平成19年1月には
「美しい日本の歴史的風土100選」にも選定されています。
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川越城主酒井忠勝が城下に建てたのが最初で、時間を知る手段のなかった当時に、
庶民たちに時を告げる手段としておおいに親しまれる存在でした。
現在の鐘楼は明治27年に再建された4代目ですが、構造自体は江戸時代の姿そのまま。
現在も6時・12時・15時・18時の一日4回、鐘の音が小江戸の町に響き渡っています。
耐震工事も無事に終了したようですね~
「御由緒沿革」
当神社は、元和・宝永・弘化の年間における行田町大火の際、再三の類焼の災禍に会い、
旧記重宝等を焼失して御創祀の次第は判然と致しませんが、口碑によると源頼義・義家が、奥州討伐のためこの地に滞陣した折、戦勝を祈願して勧請されたと伝えられています。
当初、佐間村田中に鎮座、俗に田中(でんちゅう)八幡と称せられました。
天文年中に、現在の地に移されこの時、忍城主成田下総守長泰公は深く当社を崇敬して
社殿を修補し城下総鎮守といたしました。
是れより、「城主八幡」また社殿の向きから.「西向き八幡」の名があります。
爾来、代々城主の尊崇篤く殊に阿部豊後守は、八幡大神の御神像を奉献し、
次いで阿部正識(まさつね)公も自筆の額を御献進されました。
社殿の造営は、元和五年再営ののちに宝永年間に焼失、宝永四年に再建、宝永五年には幣殿・拝殿を再建しております。弘化三年行田大火により社殿全焼の時、町全体が焼失し、
氏子による社の再営が不可能となり祀職家にて同年本殿を再建いたしました。
現在の社殿は、皇紀二千六百五十年を記念して造営が進められ、平成元年十一月の竣功であります。次いで平成十二年には参集殿が竣功いたしました。
(行田八幡神社HPより)
「なで桃」(延命長寿・病魔退散・厄災消除)
古来、桃は中国においては不老長寿の果実として、また日本においても魔除けの果実として知られています。
それは「古事記」の中にある次の神話に由来しています。
「黄泉国(あの世)」から逃げ帰る伊邪那岐命が葦原中国(この世)との境に辿り着いた時、坂の上の桃の木を見つけその実を3つ取り、悪鬼にめがけて投げつけて難を逃れました。
伊邪那岐命は桃の実に『あなたは私を助けてくれた神の実です。
どうかこの世の全ての人が悩み苦しむ時も助けて下さい。』と言って意富加牟豆美命という名前をお与えになりました。」
以来、桃の実は病難・災難除けの象徴として尊重される様になりました。
(行田八幡神社HPより)
埼玉中央銀行行田支店で企業融資担当として勤務する銀行マン坂本太郎とその上司大橋を
乗せたハイヤーがこはぜ屋の入り口を入って行く。
前夜、坂本は宮沢(こはぜ屋四代目)からの電話で、今後のこはぜ屋はどうずるつもりなのか
正式な言葉を伺いたいと支店長からが申しておりましたと伝える。
リストラして融資を受けるのか、それともマラソン足袋の開発を続けるのか・・・
坂本「こはぜ屋さんを担当した銀行員として最後に言わせてください。
マラソン足袋の開発は、こはぜ屋さんの未来にとって必要な事です。
自分が居なくなっても、もし今回は叶わなかったとしても
どうか諦めずにいつの日かまたチャレンジして下さい。」
(坂本は数日前に支店長より他支店への転勤の内示が出ると告げられていた。)
当日の朝のラジオ体操時、従業員縫製課リーダー正岡あけみが埼玉中央の女子行員の友達から
坂本の転勤の理由はこはぜ屋のせいだと聞いて来た。
坂本はこはぜ屋の融資の件で何度か支店長とやりあっている。
前橋支店への転勤は銀行内では島流しと言われているようだとも。
こはぜ屋
を応援するさくぞう![]()
俺も足袋作るの手伝うよ![]()
せっかくだから ぐるっと一周してみよう!
三角屋根の工場には電気がついておりました。
そりゃそうだ!お仕事中ですもんねw
古きよき時代がそのまま残されている。
懐かしい気持ちになる・・・落ち着く〜〜〜![]()
つづく・・・・・
って箱根原付二人旅がまだ途中だったw
































































































































