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桜のブログ

思い出アルバム

朝晩めっさ冷え込むけど、昼間はポカポカだよなぁ顔

 
 
わんこ「あっ!桜、なんか居るぞup
 
わんこ」「いっひっひ~笑  おんや・・・また会ったね^^ カワセミ君カワセミ パタパタ  野鳥カワセミ
 
君は身軽だから、綿毛の上にもとまれちゃうんだなぁきらきら
 
 
 
わんこ「ん・・・・匂う^^」
 
調子に乗って走りまわる さくぞうw
 
んで 私はというと・・・・
どんどん、どんどん深みにハマっていくww
DVDまで買ってしまった(爆)
 
「世子さまぁ~きらきらLOVE」                                 (画像お借りしました)

 

11月の終わりの土曜日、
前日夜のlineで、紅葉を見に行こうと突然決まるw
 
鎌倉のどこへ行こうと決めていたわけでもないが、とりあえず友達と北鎌倉駅で待ち合わせ。

 
朝ろくなものを食べていなかった為、「腹減ったぁ~」ということで
行き当たりばったりのお店に入りちと早いランチ。
 
それにしても、紅葉時期の土曜日ともあって、北鎌倉駅はもの凄い観光客でごった返していた><
 
まずは「明月院」へ立ち寄る^^
この写真撮るのに長蛇の列だったあへへ
 
可愛らしいうさぎと亀さんも相変わらずの人気でした眠りビリーむよむよ
 
 
昔懐かしいエロい自販機かと思いきやwww
「湘南クッキー」とか笑
 
「箱根旧街道 石だたみ」「あおさの磯」?
えぇ?www
 
鎌倉野菜の連売(鎌倉市農協連即売所)も相も変わらず賑わっておったむふっ。
 
 
   コレ 城か?ww
 
北鎌倉〜鎌倉〜長谷寺とテクテク歩いていると・・・・・
「おぉ?こんな所に神社があるよ。寄ってみようか」
という事になり、境内に向かいます。
 
「甘縄神明神社」

和銅三年(七一〇)八月行基の草創により染谷太郎時忠が山上に神明宮、麓に神輿山円徳寺を建立、

後に寺号を甘縄院と名付けたことに始まるという。

 

また源頼義公が当社に祈願して八幡太郎義家を当地に生み、康平六年(一〇六三)には当社を修復、

永保元年(一〇八一)には八幡太郎義家公が当社を修復したという。


 「吾妻鏡」によれば、伊勢別宮として源頼朝公が崇敬し、文治三年(一一八六)十月、社殿を修理し、

四面に荒垣及び鳥居を建てている。

また建久五年(一一九四)までに頼朝公は三度、政子の方は二度、実朝公は一度参詣している。


 「相模風土記」には「神明宮、里俗甘縄明神と唱う」「別当臨済宗甘縄院」とある。
 明治維新の神仏分離により、別当甘縄院は廃絶し、神明宮は明治六年村社に列格された。

明治二十年五月、五社明神社を合祀し、明治四十年四月神饌幣帛料供進神社に指定された。
 昭和七年社号を甘縄神明神社と改称した。常には里人慣習で甘縄神明社宮と呼称している。

 

近くには川端康成の邸宅があったようで、小説「山の音」の舞台として描かれていることでも

知られています。

 

 
背後に山を抱えた神社であり、静かな心地の良い空気が流れていました。
 
あら〜歴史好きにはたまらない史蹟じゃない!笑
 
「北条時宗産湯の井」
「二条公爵愛用の井」

鎌倉幕府八代執権・北条時宗公産湯の井。子宝や誕生日の参詣にご利益があります。

 

写真を撮り忘れましたが、高台の眺めのよい所であるため、相模湾が見渡せました^^

思わず深呼吸しちゃう顔

 

本殿

 

長谷寺を通過して、御霊神社へ向かう。

 

「カフェ ナガクラ」から 和平さんは出て来ませんでしたw

いいよねぇ~また続々で「最後から二番目の恋」やんないかなぁ~ルンルン♪

「千明ぃ~~!!

 

また立ち寄った「御霊神社」

いいねぇ~好きだなぁ~ココup

 

このニャンコは、御霊神社の名誉宮司さんらしいねこねこ2

 

食べたかった「力餅屋」のもち・・・・・売り切れで買えなかった><汗

 

偶然に、この日から長谷寺のライトアップがあると知り、

夕刻にいそいそと行ってみた!

 

・・・・が、案の定、本当に物凄いスゴイ人・人・人・・・・

鎌倉は平日でも観光客が多いから、紅葉時期の土曜でライトアップとなれば

そりゃぁ~そうなるわなバフッ!

 

 

電車で鎌倉へ行き、歩き回ると、必ず帰り道は足が痛くてどこでもドアが欲しくなるww

一緒に行った子はまだまだ30そこそこなので、体力、脚力に大きな違いがあり、

なんでもないらしいw

「くそぉ〜〜〜年には勝てねぇ~orz

 

また一緒にどっか行こうLOVE

ヘロヘロで電車に乗り込んだが、結局地元の最寄りの駅までずっと座っていられた

ラッキーなあたいww

今度はさくと山歩きに行きたいなぁ~ゴールデンレトリバー

 

ここ数日、冷え込んできておりますね。

我多摩エリアの朝は、道路の歩道側が凍結しておりますがな><

インフルエンザの季節でもありますので、みなさん体調崩さないように

お気を付け下さいましねピース

 

おやすもですナイス

休みの日に ながら見していた「雲が描いた月明かり」。
半分観た所で 翌日以降の録画設定をしている自分に苦笑い😅
生まれて初めて韓流ドラマにハマってしまったようだ(笑)

あらすじ

幼い頃から男装して生きてきたサムノムことラオンは、恋愛相談家として生計を立てていた。そんなある日、代筆を頼まれて恋文を送っていた相手と会うことになるが、現れたのは一国の世子であるヨンだった! そうとも知らないラオンは、身分を明かせと詰め寄るヨンを落とし穴に置き去りにして逃げ出すことに成功。その後、借金取りに売られて内官試験を受けるはめになるが、そこでヨンとまさかの再会を果たす。気まずいラオンは脱出を試みるが、仕返しをしたいヨンは彼女を内官に合格させてしまう! 互いの素性を知らぬまま、2人は次第に距離を縮めていくが…!?


今朝は自宅の排水管清掃があった為、
仕事には遅れて行く事になり、
普段はリアルタイムで見られない「雲が描いた~」を見ることが出来た。

パク・ボゴム(>ω<〃)~♡
「世子様ぁ~(∀`*ゞ)エヘヘ」

帰ってから又観ようฅ( ̳• ·̫ • ̳ฅ)♡

数日分まとめて🐾
 
日野市のとある森木木もみじ

 
落ち葉の絨毯はふわっふわ落ち葉どんぐりもみじ
 
 
買い物帰りの寄り道だったが、日野の自然も素晴らしいよ〜もみじ歩く
 
 
 
ここからは昭島市ww
近場の買い物帰りにまた寄り道^^
こっちはイチョウのイエローカーペット♪♪♪
 
ヘルニアの後遺症で後ろ足引きずるから 落ち葉の上を歩くのには難儀する汗 
 
冬の空が大好き顔
 
 
 
こっからは国立市の谷保散歩🐾
まずは いつも買いに行く野菜の無人販売キャベツポテトチップaya米
 
ミニマムカリフラワー野菜ayaお米が300円 キャベツ100円也ルンルン♪
 
もう一か所で オレンジカリフラワー200円 レタス150円 ラディッシュ100円也〜
 
綺麗な所だろ?むふっ。
俺のお気に入りの場所なんだぁわんこハート

 

じゃっ!! またな〜ゴールデンレトリバー

 

試行錯誤 あれこれ調べた結果、LINEに関しては 新規登録せざるを得なく、
今まで買ったスタンプも泣く泣く諦めました。
 
昼間から今の今まで、InstagramのメッセージでLINEのID教えてもらったり、
又心配してくるた友達からLINEのグループに招待してもらい、
なんとか日頃連絡をとっていた方々とは繋がることができました!
 
「長谷寺」

友達と鎌倉に紅葉を見に行った時の写真をブログにアップしようなんて考えていた
矢先の事でした><
 
こんな オバチャンになっちまうと わかっているようで わかってない事がまだまだあると
思い知らされました><
 
LINEにメアドも登録したし、他のアプリ関連もちゃんと見直しておかないと
もう同じ目に合わないように><
 
お騒がせババぁでしたwww
そして ありがとう^^
昨日、さくとあきる野市の広徳寺へ行ってきました!

 
 
あきる野市は、同じ多摩エリアでもわが町と比べたら、朝の気温がだいぶ違うのだ。
職場の上司があきる野市に住んでおり、
半月位前から朝出勤すると、「今朝寒かった>< マイナス5度だぜ もうw」
マイナス? 山間だから冷え込むんだねぇ
 
そんな季候の為、紅葉もそらぁ綺麗でござんす。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
このあと
私のスマホがお亡くなりになりました(ㅎ.ㅎ )
その為、いくつかのアプリ復旧不可能となった。
修理に出そうと思ってショップに行ったが、画面操作すらできない為
修理に出すにしても、データは消えてしまうらしいあへへ
 
ならば いい機会だからって事で機種変更した。
 
ぶっ壊れたスマホのlineはタッチ操作が出来ないから開く事すらできない。
新しいスマホに乗り換えたのに、壊れたスマホのline件数が増えて行くのって良くわからないんだけど・・・
スマホ死んでもlineが生きてるからか?
 
アドレスなんか登録してないからどうにもならないらしい。
ショップのおねいさんが教えてくれた「壊れスマホにマウスを繋いで操作する方法を
試してる所だ!
たしかにスマホ画面の中にマウスのポインターが出て来ていじれたが
またスグ電源が落ちてしまう始末w
成功したら、メモ帳の中身とか連絡先アドレス達をなんとかせねばならんが・・・・
最悪、連絡先は一から入力だがっかり
LINEは家族の連絡でけっこう使ってるから無いと困るんだよなぁ~
 
もうちっと粘って あれこれデーターとり出せないか頑張るぜ!
 
ってことで、桜にLINEしても読めませんのであしからず焦る
 
 
箱根旅、予定外で二日目。
早朝の浜の寺で墓前参りm(_ _ )m
 
 
一つ目の心残りであった墓前参りを済ませ「山中城跡」へ軽ワゴンためいき*
(※以降、スマホ撮影とカメラ撮影が混在)
 

山中城は戦国時代末期の永禄年間(1560年代)に小田原に本城をおいた北条氏が築城しました。

その後天正17年豊臣秀吉と不仲となった北条氏政は、秀吉の小田原攻めに備え、

急遽堀や岱崎出丸等の整備、増築を行ないました。

 

しかし翌天正18年(1590年)3月29日、増築が未完成のまま4万の豊臣軍の総攻撃を受けました。北条軍は4千で、必死の防戦もかいなく鉄砲と圧倒的兵力の前にわずか半日で落城したと伝えられています。

このときの城将松田康長、副将間宮康俊、豊臣方の一柳直末等武将の墓が三ノ丸にある

宗閑寺境内にあります。

 

400年前の遺構がそのまま復元されている石を使わない土だけの山城は全国的にも非常に

珍しいものです。

堀や土塁が良く残っており、尾根を区切る曲輪の造成法、架橋や土橋の配置など箱根山の

自然の地形を巧みにとり入れた山城の作り方など、目を見張るものがあります。

昭和9年(1934年)国の史跡として指定されています。

 

 
ワクワク↑
 
 
    コレ
 
    コレ
    コレ
    ↑

 

「障子堀」

 ※西の丸と西櫓の間の堀

障子堀の向こうに富士山が見える

    コレ

IMG_20171120_025240376.jpg

     

西櫓からの眺め

※登って来た西の丸横の堀を眺める

 

  

    コレ

 

 

 

 

  

    コレ

 

 

 

 

    コレ

 

「障子掘」

※西の丸と西櫓の間の堀

 

    コレ

 

    

    コレ

 

空堀や土塁を見ると萌える歩く

つくづく山城が好きなんだなぁ~にっこり

 

「北の丸」と「本丸」の間の堀

 

 

    コレ

 

「北ノ丸」

標高583m、天守櫓に次ぐ本城第二の高地に位置する。

一般に曲輪の重要度は、他の曲輪よりも天守櫓により近く、より高い位置、

つまり天守櫓との距離と高さに比例するといわれている。

この点からも北ノ丸の重要さがしのばれる。
 調査の結果、この曲輪は堀を掘った土を尾根の上に盛土して平坦面を作り、本丸側を除く、

三方を土塁で囲んでいたことが判明した。

また、本丸との間には木製の橋を架けて往来していたことが明らかになったので、

木製の橋を復元整備した。

 

「北ノ丸土塁」の上にて

 

北ノ丸と本丸をつなぐ橋

    コレ

 

    コレ

    コレ

天守櫓跡からの本丸跡を眺める

    コレ

    ↑

 

    コレ

 

    コレ

 

    コレ

 

あ~大泣 どこだかわからない場所に出てしまった汗

思わぬ所から出てきてしまったが、そのおかげでこの付近に箱根旧街道がある事を知った!もみじ

ちょっと歩いてみたい。

 

「箱根旧街道」

箱根旧街道は、江戸時代初めに徳川幕府が整備した東海道の一部です。

三島宿(標高25m)から箱根峠(標高846m)を登り、小田原宿(標高10m)まで下る

八里(約32㎞)の坂道です。

 

この坂道は「箱根の山は天下の険」と歌にも唄われたように、

東海道随一の難所といわれました。

 

このうち、三島宿から箱根峠を超え、箱根の関所までの区間を西坂とも呼びます。

当初、この箱根旧街道には滑り止めのために竹が敷かれていましたが、延宝8年(1680)に

二間幅(約3.6m)で石が敷き詰められて以降、石敷きの道となりました。

 

また、当初の街道には、距離の目安となる一里塚が道の両側に築かれていたのですが、

箱根旧街道西坂にも山中、笹原、錦田の3ヶ所に一里塚が築かれ、現存しています。

 

このうち錦田一里塚は、大正11年3月8日に国史跡に指定されました。

そして平成16年10月18日には、西坂と東坂(箱根旧街道の小田原側の区画)の

計5.05㎞が国史跡に追加指定されました。

 

現在と過去の分かれ道みたい。

車のタイヤの跡と石畳道。

私は右へ進みたい^^

 

いつの時代の石仏なのか不明だが、行きかう旅人たちをずっと見守っていたのでしょう。

 

わんこ「俺、旧街道って嫌いだ! だって杉の葉が尻尾に絡まる><」

 

芦ノ湖へ向かう国道1号線は渋滞だったが、時間を気にすることもないので

山々を眺めながら(わき見運転><)ゆったりとした気分で・・・

正面の三角の木が可愛いピース

 

早雲寺(箱根湯本)から芦ノ湖を抜けて走る軽ワゴンためいき*

箱根峠から伊豆スカイラインを走り日金山十石峠へ出る。

 

その傍らに日金山東光寺がある。

 

 

「日金山 東光寺」

十国峠の近くには日金山(昔は九良地山とも言われた)東光寺という、

源頼朝が崇敬した伊豆山神社の元宮があります。

 

271年(応神天皇2年)突如浜辺に光る鏡が現れ波間を飛び交った後、、

西の峰へ飛んで行った。

その様子がまるで日輪のようで峰が火を吹き上げて見えたことから、「日が峰」と呼ばれ、

やがて「日金山」と呼ばれるようになったとされる。

594年(推古天皇2年)に走湯権現の神号を賜る。

 

その後、836年に神霊が本宮山を経て、現在の伊豆山神社に遍座されたとされ、

本尊の延命地蔵菩薩像は源頼朝の建立と言われております。

伊豆に流されていた源頼朝は、源氏の再興を日金地蔵尊に祈願し、

鎌倉に幕府を開くことができたと言われ、鎌倉に松源寺が創建された際に、

日金地蔵を模した像が安置されたという。

 

古くから、日金山には「鬼がいる」とされており、伊豆地方で亡くなった者の霊魂は日金山に

集まると言われ、春秋の彼岸に日金山に登ると通行人の中に会いたい人の後姿を見ることが

出来る、という信仰が深いそうです。

 

更に、走湯山出身の僧侶未代上人は、伊豆・箱根二所権現をも草創し、

焔熱を発して地獄の様相を示していた熱海の亡者を救うために、

日金山に地蔵菩薩を安置したという。

                          (熱海市の大月ホテルHPより)

 

大山 山② 木 木大山 山②

 

その東光寺地蔵堂の裏に負傷して隠れていた所を見つかり戦死を遂げた

二人の遊撃隊(請西藩士)の墓がある。

 

慶応四年五月二十六日、城下を退却した遊撃隊第一軍と二軍と、官軍に背後から圧力を

かけられた小田原藩が、箱根山崎で再び合戦の火蓋と切った。

 

この時、第三軍は湯本に、第五軍が畑宿に布陣し、林昌之助率いる第四軍は

山中新田から箱根関所にあった。

 

そして、山崎で勝利した小田原藩兵士が箱根を目指してきたことから、

遊撃隊は撤退を決意し日金山(十国峠)から熱海に下り、船で逃走した。

 

 

 

山崎で兵端が開かれた第一報を受けた林昌之助は、

山中新田には清水半七、広部与惣治ら九名の請西藩士を残し、

本陣としていた三島町の鎌倉屋を引き払って関所に布陣したのである。

(中略)

 

三島方面からすすんだ別動隊(官軍)は、明け六つ刻に山中新田を急襲、

激しい砲撃、銃撃を加えられて、清水半七ら五名の請西藩士がなすすべもなく斃れた。

(中略)

 

山中新田を逃れた秋山荘蔵と広部与惣治は、日金山東光寺の熱海坊に潜んだが、

この時秋山は足首をザックリと斬られ、広部も身に数彈を浴びている。

 

熱海坊に踏み込んだ小田原兵が見出したのは、抵抗力を全く失って呻いている秋山と、

血だらけの体に布団を引っかぶり目だけを暗く光らせている広部の追い詰められた姿で

あった。

 

秋山はあえなく首を刎ねられた。が、広部は必死に言った。

「待ってくれ。一言申したいことがある」

しかし誰も聞く耳を持たない。

広部は布団の上から滅多刺しにされて息絶えた。

                             「中村彰彦著 遊撃隊始末記」より抜粋。

           ↑

『小田原近代百年史』(中野敬次郎著)には、人名は記されていないが全く同様の事が

書かれている。

 

 

また、浦井晃著「日金山十國峠とその史蹟(歴史と郷土)」には、

この日金山の戦闘について次のように書かれている。

     コレ

・・・・・・

主將林昌之助以下六十餘名は三々伍々箱根から熱海に逃れ來ったのであります。

その時深傷を負ふた二人の幕兵は日金山の熱海坊と稱した家に休憩して、輕井澤に

籠を迎えにやりましたが不幸にもその到らぬ前に追手の一隊に發見されてしまひました。

 

この幕兵の一人は何でも足の甲をしたたかにきられ、足首が皮一枚でぶらさがってゐたと

いふことです。

 

追手は三百名ばかりで忽ち熱海坊を取り圍み、銃火を浴びせかけました。

二人は重傷に屈せず、坊の畳をめくりあげて即席の弾除となし暫く之を防いでをりましたが、

やがてをどり込む追手と亘りあって、多數の追手に手傷を負はしましたが、

遂に衆寡敵せず亂刄の中に悲壮な最期を遂ぐるに至りました。

(中略)

 

その戰の時此の坊に二人のゐざりが住んでをりました。

一人は椽の下に入り込みましたが鐡砲彈がま近くブツブツ當るので、

遂に一人は泣き出し一人は無我夢中、どうのたって行ったものか

五十町ばかり下の輕井澤といふ所まで辿りついたといふことですから、

餘程恐ろしい出來事であったにちがひありません。

 

この物語りは日金山に住んでゐた老翁から親しく聞いたものであります。

 

 

此処、なかなか見つけられなくて、何度も人に尋ねてやっとたどり着いた。

最後に地蔵堂の付近で会った地元のおいじちゃんに伺ったが、

普段はお堂に人はいらっしゃらないとの事。

 

お堂の向かい奥は 子供たちが遊べる山のアスレチックになっているようで、

遠くから家族で遊びに来ていた子供たちの声が聞こえて来た。

 

お堂とお地蔵さまに手を合わせ、お堂の裏の道へまわり先へ進む。

 

参道の両脇を小さな五輪塔がびっしりと並んでいる。

まるで神聖なる場所を守っているかの様だった。

 

 

「戊辰戦役請西藩士終焉(戦死)の地」

慶応四年戊辰年閏五月 

最後の佐幕派大名といわれた上総国請西藩主林忠崇に従い

徳川家の恩顧に報いるため遊撃隊に加わり熾列な箱根戦役において敗れ

熱海へ撤退中ここ日金山東光寺熱海坊にて多勢の官軍と激しく交戦。

 

壮烈な戦死を遂げた「廣部与惣治正邦」「秋山壮蔵」二名の戦士の墓である。

維新への大きな潮流の中にあって武士の大義に殉じた幕臣達の忠誠心を慮り

密かに埋葬され、慰霊の墓が建立されたものと推測される。

 

建立された篤志家(不詳)発見の端緒を開かれた郷土史家各位ならびに

東光寺関係者に深甚の感謝を捧げる。

 

平成二十五年五月(修復)

東京大学名誉教授 廣部雅昭

(請西藩士 廣部周助玄孫 熱海市伊豆山)

 

(左側)

上總国望陀郡請西 林肥後守藩

廣部正邦 秋山荘蔵

 

(右側)

慶應四戊辰年 五月廿七日戦死

 

(正面)

廣遍正邦居士

秋山宗義居士

(この二名の名は、芦ノ湖畔浜の寺「遊撃隊戦死者」の墓碑にも刻まれている。)

 

お墓をブログにというのは 賛否両論あるかと思いますが、

こんな山奥に本当にひっそりと眠って居られる請西藩士の方が

いらっしゃるという事を記しておきたいと思う。

 

 

墓参りを済ませ、東光寺の参道を戻ると十国峠の山頂付近に出る。

 

すでに少し日が傾きかけていたが、さくと富士山を眺めながらの散歩🐾

 

気持ちがいいったらない笑

 

十国峠山頂

 

走る ダッシュ焦る 二人で走り回る 走る ダッシュ焦る

 

初島が見えます。コレ

伊庭さんが山崎の戦いで腕を斬られたあとの事。(慶応四年五月)

 

「畑宿で林の殿様のお医者が、先生(八郎)の腕首のブラブラしておるのを切り落として、

血を止め、縛りつけなどしました。」              (伊庭八郎家来:鎌吉談)

 

 

二十七日の夜明けになり、林の第四軍は負傷者などを収容し、九時半に遊撃隊は

箱根退去を決定した。

                                    (伊庭八郎のすべて参照)

 

 

同日のうちに、人見勝太郎が熱海の隣の網代へ走り、小型の押し送り舟を

一艘と大船三艘を調達。

遊撃隊はこれらの船に分乗し、問罪軍の手から逃れる事にした。

 

伊庭八郎は三人の伴を連れて押し送り舟に乗り、沖合三里の距離にある初島へ潜伏。

他は大船三艘に分乗し、館山へもどる事になった。

大船三艘が館山港に入ったのは二十八日「払暁」のことであったと忠崇は書いている。

忠崇が館山港に旧悪府軍の軍艦の一艘「咸臨丸」がいることに気づき、又ようやく人見が

応援依頼におもむいた効果があらわれ、やはり旧幕府海軍所属の「千代田形」、「長崎丸」、

「大江丸」の三艘も入港してきた。

 

・・・・・・。

 

その後月日は不明だが、伊庭八郎は旧幕府海軍付属の病院船「旭日丸」に収容された。

真っ青な顔をして左腕を押さえてはいたものの、

「ヤリソクナイマシタ」(史談会記事「旧幕府」合本五)と江戸弁で語ったので、

かえって周囲の者が驚いたという。     

 

まだ品川沖に碇泊中の「開陽丸」に座乗していた榎本武揚は、

この二十八日の時点で「千代田丸」「長崎丸」「大江丸」のいずれかから報じられ、

病院船「旭日丸」を初島へむかわせて伊庭八郎を収容させたと見える。

                            (中村彰彦著:脱藩大名の戊辰戦争参照)

                            (中村彰彦著:ある幕臣の戊辰戦争参照)

 

また、「伊庭八郎のすべて」にはこうある。コレ

 

その後、遊撃隊は熱海で漁船を雇って網代港に向かい、ここで大船に乗り換えて

館山へと敗走する。

 

途中、重傷の八郎は旧幕府の軍艦開陽丸に移され、品川沖の病院船「旭丸」で

医師の篠原某より再手術を受ける。

 

このとき八郎は腕を押さえて、真っ青な顔で榎本に「ヤリソクナイマシタ」と語ったという。

 

伊庭さんらだけが初島に潜伏する理由があったのか・・・。

実際に初島の土を踏んだのかどうかは今となっては不明である。

 

 

余談だが・・・・

高校を卒業した春休みに、私が幹事となり旅の手配をし、男女含めた友人ら30名近くと

熱海二泊三日の卒業旅行へ行った。

この旅で 初島を訪れた事を思い出す。

 

帰りたくない・・・・

 

芦ノ湖へ戻って来た。

 

このまま帰る予定だったが・・・・・

 

 

※誤字・脱字あるかも・・・

 
早雲寺からすこし先の「正眼寺」起雲閣にて、先代住職 故岩崎宗純の浮世絵コレクションが
11月2日、3日、4日無料公開されました。

 

このお寺さんも遊撃隊絡みと桜を拝見しにと・・・何度となく訪れています。
先代住職が、箱根の歴史の史料としてこの浮世絵を集めたのだと伺いました。
 
さくを連れていたので車に乗せに行こうとしたら、
ご住職が「その辺に繋いでおいていいですよぉ^^」
その辺って汗
邪魔にならない(勿論本堂前でなく)場所でさくに待っててもらいました。
さくが「お母しゃぁ~ん汗」と吠えるので ダッシュで拝見しますブ~・・・(車)。

 
光が入り込み見えずらい所もあると思いますが、先代ご住職収集の箱根の歴史を
ご覧ください。
 
 
    コレ
 
    コレ
 
     コレ
 
 
    コレ
 
    コレ
 
 
釘づけにw
この辺りは面影が残ってますねぇ

     コレ

もっとゆっくり見て居たかった。(特に三枚橋)

だが、可愛い息子が鳴いている(泣いて)汗

さくと歩いて早雲寺へ戻るルンルン♪

 

ここで小田原北条文化と歴史を伝える「寺宝と襖絵特別公開」を拝見しました。

写真撮影不可の為、画像はありません。

➡コチラのHPをご覧下さい。http://www.souunji.jp/bijutsukugei.html

 

臨済宗大徳寺派の早雲寺は、室町時代中後期・戦国初期の大名、北条早雲(1432?-1519)に

始まる後北条氏五代の菩提寺です。

1519年(永正16年)に享年64〜88歳で死去した早雲の意志により、早雲から家督を譲られた

氏綱が1521年(大永元年)に創建しました。

 

早雲は、室町幕府の政所執事から、伊豆・相模・三浦・武蔵の一部を支配する大名へと

のし上がった人物であり、早雲に始まる後北条氏は、名城小田原城を本拠とし早雲、

氏綱、氏康、氏政、氏直と5代に渡り勢力を拡大。

 

その版図は伊豆、相模、武蔵、下総、上総(半分)、上野に加えて下野、駿河、甲斐、常陸の一部にも及び、240万石に達する大大名でした。

したがって、北条氏の菩提寺であった早雲寺は関東屈指の禅刹として繁栄しました。

 

北条早雲に始まる北条氏の領国支配は、史上最も低いといわれる四公六民の税率をとり、

領主は民衆の生命と財産を守ることが仕事であるという理念に基づいておこなわれ、

後北条氏なきあと領地に入った徳川家康は、民衆が後北条氏を慕うため大変やり難かったといういい伝えが残ります。

 

1590年(天正18年)小田原征伐と題して北条氏を攻撃した豊臣秀吉は、4月5日、

箱根山を越えて早雲寺に入り本陣としました

6月になり石垣山一夜城が完成すると早雲寺を焼き払い本陣を移しました。

 

1589年(天正17年)秀吉により滅ぼされた北条氏は、第4代当主北条氏政の弟である氏規が

大阪河内狭山に狭山北条氏1万石として、また鎌倉玉縄城主であった氏勝が徳川家康傘下と

なって下総岩富に1万石を与えられ、江戸時代を生き抜きました。

早雲寺は、秀吉に焼き払われた後、1672年(寛文12年)、狭山北条氏当主氏治により再建

されました。

                                (鎌倉タイム参照)

 

普段は入れない本堂に入れていただける事。

本堂に入ると、当時の空気が流れているような錯覚に陥ります。

 

虎と龍の襖絵は、今にも飛び出て来そうなほどの迫力と躍動感、とら龍

いつまでも眺めて居たくなるような それはそれは立派なものでした。

 

他にも戦国期の物としては、北条氏三代までの肖像画や寺領安堵状、早雲寺芹椀など

じっくりと拝見させていただく事ができました。

                                     (写真は拝借しました)

ご住職が早雲寺の歴史から解説で案内して下

何分さくを車で待たせているので、そっと途中で抜けさせて頂く。

 

ごめんね汗 さく

お寺の中にはねぇ・・・ さすがに連れていけないからがっかり

次の場所へ移動軽ワゴンためいき*

 

今年は仕事の都合をつけて是非にと計画していた大名行列ハート

11/3(金)に大名行列を見て 箱根湯本ウロウロして帰る予定だった。

・・・・・・・。

 

まだ暗いうちに 箱根湯本の早雲寺へ到着。

まだ真っ暗だったが、さくと少し散歩してから車中で仮眠をとり、

早朝の朝もやの中墓前参りをする。

 

毎度訪れると、ほぼ100%の確率で ご住職が境内の掃き掃除をされている。

大事にされているお姿にほっこりする^^

 

「また参りました」と一礼、墓前にお線香を手向けさせてき合掌m(_ _ )m

 

本堂裏の史跡庭園「北条幻庵作 枯山水香爐峰」コレ

 

北条玄庵は北条早雲の三男でした。

幼年時代に箱根権現の別当職を約束され、京都に出て三井寺で修学したり、

学者や文化人について諸芸を学び、格調高い歌を詠む文化人でもありました。

天文10 年(1541)に兄氏綱が逝去した後は、3代氏康、4代氏政の後見人として

一族の長老的存在となりました。

 

お参りを済ませた後、早雲寺の隣の小学校へ移動。

行列に参加される地元の方々や一般で応募された方々の準備が着々と進んでいた。

 

大名行列に参加したくて申し込んで当たった方で

左の方はわざわざイタリアから、真ん中の子は台湾からの参加なんだそうです。

台湾から参加の子がワンコが大好きで触っていいですか?と

さくをナデナデしてくれた時に聞いたお話。

 

大名行列に参加出来るワクワクした気持ちが伝わってきました。

 

写真は撮ってないが、地元のおじさまで何年も毛槍で参加されている方と

立ち話をした時の話。

「もうねぇ~足が上がらないのよw あれ結構キツイんだ汗」と。

行列見て、「あぁ~たしかに汗 片足で立つし足も上げるし大変だ」と思った。

ホント、お疲れさまですm(_ _ )m

 

 

箱根の山々に囲まれた早雲寺隣の小学校で開会式が行われた。

 

「第64回 箱根大名行列」

箱根では、毎年11月3日の文化の日に、「下に下に」と、毛槍を振り、総勢百七十人の大名行列が、旧東海道を練り歩く。まことに江戸時代の華やかな参勤交代をしのばせてくれる。

 

このころは、箱根は全山紅葉に染まって美しく、紅葉狩りをかねて、毎年大勢の観光客が訪れる。箱根の大名行列の人気は、何といっても、僅か百数十年前まで、華やかな大名行列が実際に通り過ぎていった旧東海道で行われること、行列の最後を飾る長持担ぎの人足が唄う雲助唄に、往時の情緒がしのばれるからであろうか。

 

江戸幕府が、幕藩体制維持のために、各大名に命じた参勤交代は、

三代将軍家光によって制度化された。

大名の妻や子を江戸に居住させ、大名は一年おきに、江戸と国許を往復しました。

その大名行列の員数・規模は、各大名の石高によって決められ、

箱根大名行列は、小田原藩11万石3千石の格式にならっています。

 

 

 

 

 

 

「傷病兵の大名行列」

 大名行列は、年中行事として箱根の名物になったが、間もなく日中戦争が起こり、

さらに太平洋戦争へと戦火が拡がるにつれて、遂に中止のやむなきに至った。
 この間、戦争で傷ついた兵隊さんが、義足で毛槍を振り、挟箱を担いで大名行列を

楽しんだことを知る人は少ない。


 今の湯本富士屋ホテルのところにあった旅館三昧荘は、戦時中は陸軍の療養所だった。

この旅館の主人が、大名行列の元締めだった箱根振興会の主事で、後に参議院議員になった

石村幸作だったので、大名行列をやって傷病兵を慰問しようとしたらしい。


 ところが、傷病兵の方から「自分たちも参加したい」と言い出した。

そこで水島隆三(環翠楼の番頭)らが指導し、挟箱一人、毛槍一人、それに徒士を合わせて、

15人位が参加した。皆義足の兵隊さんで、長い距離は無理なので、三昧荘から駅前を通って、今の観光物産館前まで、凡そ300㍍の間で演技を十数回もやって喜ばれたという。

もちろん、毛槍や挟箱を受けるのは、水島らベテランの奴さんたちだった。


 戦争の激しさは、傷病兵の心をいやした、このささやかな大名行列さえ許さなくなり、

大名行列の衣装は湯本駅前の加満幸の主人小林智恵次が預って大切に保存してくれた。

樟脳さえ手に入り難い戦時中に、小林さんは使った衣装をていねいに洗濯し、大事に保存してくれた。

その小林の努力が戦後すぐに実を結んで、大名行列は復活した。

 

「第一回目の大名行列」         (箱根町観光情報ポータルサイトより)

箱根町の長き歴史を感じます。

 

 

車を駐車場へ停めたまま、行列について歩くw

いつもは車、前回は原付で走り抜けてしまうこの道。

さくゴールデンレトリバーを抱っこして歩く事になるとは^^

(ちなみに行列通過の時間は車両通行禁止となります。)

 

私は挟み箱と毛槍に目が行きます^^

きっと当日から筋肉痛バリバリだと思いますバフッ!

 

 

 

開会式で話した彼らも悠々と歩いていました笑

 

箱根町町長の殿様w

 

➡ 大名行列が行われるまでを詳しく知りたい方はコチラ

  https://www.hakone.or.jp/midokoro/daimyo.html

 

行列参加者の休憩場所となる天成園で彼らを迎える為、

旧東海道から抜け道を通ります。

 

ここに旧街道があることすら知らなかったので ワクワク↑

 

石畳が気持ちいい^^

時間も気にせずまったりと歩くルンルン♪

 

おや・・・またお会いしましたね^^

 

天成園に到着。

天気も良かったので汗だくでw

 

ここ天成園は以前Rちゃんと箱根一泊旅に来た時に宿泊したホテルで、

箱根院やの分宮で唯一、九頭龍さまを祀る縁結びの神社「玉簾神社」が鎮座しております。

 

 

玉簾の滝前にて

 

ホテルで用意されたB級グルメが橋の袂に出店されていたので

私はそこで腹ごしらえを! うまかったぁにっこり

 

天成園前より行列を迎えます。

 

 

 

 

 

見物客にお札が配られました。

 

滝の前で「お医者様と千利久殿」

 

皆さんはここで昼食休憩をしてから、箱根湯本駅前まで歩きますが、

私はここで失礼させて頂きます。

朝早くからの準備、また慣れない草履での行列、お疲れ様でございましたm(_ _ )m

楽しませて頂きました^^

 

天成園を後にして、先ほど歩いた箱根旧街道へ戻る途中、変な虫めっけたw

木の枝かと思ったら動いたあへへ

また箱根旧道を引き返し、正眼寺へ向かう歩く